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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「愛は決して滅びない」

2025年04月25日 | 聖書のお話

「愛は決して滅びない」 コリントの信徒への手紙一 13章1~13節

 教会では、イースター(キリストの復活日)に「イースターおめでとう」と言ってお祝いをします。「おめでとう」と言うのは、イエスさんが復活されたからなのですが、イエスさんは自分のことを祝ってもらいたいと考えていたのでしょうか。荒野の誘惑を退けたイエスさんは、「私は死んだのに復活したぞ、奇跡だぞ、凄いだろ」と言うような人のようには思えません。

 イエスさんは、復活を通して不思議な力や奇跡を示そうとしたのではありません。十字架で命を賭して「愛」を示されたのです。「愛」とは、赦しであり、救いです。けれども、「愛」と言うと、何だか弱くて頼りないもののように受け止められています。イエスさんは、復活を通して「愛」が弱くもなく、決して滅びないことを伝えているのです。

 いずれにしても、権力や武力が世界に平和をもたらしたり、たとえ奇跡が起こっても世界に平和がもたらされることなどありません。それは、自明の理なのです。世界に真の平和をもたらすのは、一人ひとりの意思、「愛」です。今だけカネだけ自分だけという考えが闊歩する世の中にあって、「愛」が理解されるのは難しさを感じます。しかし、イエスさんが復活によって「愛」が決して滅びないことを示されたように、私たちも「愛」をあきらめずに世に宣べ伝え、やがて「愛」によって人々の心が変革され、世界に真の平和がもたらされるとき、互いに「イースターおめでとう」と言い合えるようになるのです。

 


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「ゲッセマネで愛を祈る」

2025年04月19日 | 聖書のお話

「ゲッセマネで愛を祈る」 マタイによる福音書 26章36~46節

 イエスさんは、弟子たちと共にゲッセマネという所で祈りました。その時、イエスさんは苦しみもだえて、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言って、少し進んで地面にうつ伏せになり「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈りました。

 イエスさんが戻ってみると、彼らは眠っていました。イエスさんは、「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。心は燃えても、肉体は弱い。」と言いました。更に、二度目に向こうへ行き「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈りました。再び戻ると、彼らは眠っていました。そこで再び向こうへ行き、三度目も同じ言葉で祈りました。戻ってみると、彼らは眠ったままでした。

 イエスさんは、弟子たちに目を覚まして祈って欲しかったのですが、それができない彼らを赦しました。むしろ、心は燃えても肉体が弱いことに理解を示し、その時が来るまでそのまま休ませました。不思議なことに、弱さを持った弟子たちを愛し、祈れば祈るほど、死ぬばかりの悲しみも和らぎました。愛を祈れば平安を得るのです。イゲッセマネで愛を祈ったエスさんは、神さまの御心を受け入れて苦難の杯を飲むために、「立て、行こう。」と言って彼らを眠りから起こしました。

 


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「愛はあべこべ」

2025年04月11日 | 聖書のお話

「愛はあべこべ」 マタイによる福音書 20章20~28節

 本気で世の中を良くしようと思えば思うほど、国会議員や総理大臣になって働いた方が現実的ではないでしょうか。いくら井戸端会議で立派な議論を述べようとも、世の中は何も変わりません。地位や権力を使うことは、効率的でもあるのです。そのように考えると、ゼベダイの息子たちの母がその二人の息子と一緒になって、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」とイエスさんにお願いしたのは、兄弟が本気でイエスさんと一緒に世の中を良くしようと考えていた表れなのかも知れません。

 しかし、これを聞いた10人の弟子たちは、この二人の兄弟のことで腹を立てました。他の10人の弟子たちも、これからイエスさんと一緒に世の中を良くするために働こうとしていました。なのに、どうして腹を立てたのでしょうか。それは、弟子たちの間で、すで世の中でよくある権力争いと同じようなことが起こっていたからではないでしょうか。このことから、権力を用いて世の中を良くするのは、現実的で効率的でもある反面、実際に権力を用いることの難しさを伝えているように思われます。

 イエスさんは、世の中を良くするにあたり、世の権力者が権力を用いて世の中を良くしようとする方法を採りませんでした。なぜなら、イエスさんが用いようとした手段は、「愛」だからです。権力とは往々にして上から目線で人々を従わせる冷淡な一面がありますが、「愛」はそうではありません。イエスさんは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい物は、皆の僕(奴隷)になりなさい。」と言いました。愛によって世の中を良くしようとするならば、この世の多くの人たちが持っている権力ではなく、権力とはあべこべの「愛」でなければならないと教えているのです。

 


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「愛で返す」

2025年04月04日 | 聖書のお話

「愛で返す」 マタイによる福音書 22章15~22節

 ファリサイ派とサドカイ派の人たちは、イエスさんの言葉じりをとらえて、罠にかけようと相談しました。そして、イエスさんに「教えてください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。」と言いました。当時、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありましたので、ユダヤの人たちは自分たちが納めるべき神殿税に加えて、ローマ帝国に税金を納めなければなりませんでした。そのことは、とりわけ貧しい人たちにとって負担になりました。ファリサイ派とサドカイ派の人たちは、イエスさんが社会の貧しい人たちを思いやり、皇帝への税金を納めなくて良いと言おうものなら、ローマ帝国に対する反逆罪としてイエスさんを訴えようと考えました。それが、彼らの罠でした。

 イエスさんは、皇帝に納めるデナリオン銀貨を持ってこさせ、「これは誰の肖像と銘か。」と言いました。彼らは、「皇帝のものです。」と言いました。イエスさんは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言いました。すると、彼らはその言葉に驚き、イエスさんをその場に残して立ち去りました。税金とは、公共のために用いられ、国民に還元されるものです。皇帝が税金を徴収して公共のために使うのは当たり前で、皇帝に税金を納めなさいと言われたからとて、驚いて立ち去るほどのことではありません。にも関わらず、彼らが驚いてその場を立ち去ったのは、イエスさんの「神のものは神に返しなさい。」との言葉に理由があったからです。

 お金とは、罠にもなるし誘惑にもなります。つまり、ユダヤ社会の指導者たちは、神殿税を自分たちに都合良く使っていて、そのことを大衆の面前で指摘されないうちに、イエスさんの前から立ち去ったのではないでしょうか。そもそも神さまは、お金など必要としていません。神殿税は、ユダヤの人たちによって納められ、ユダヤの人たちのために用いられるものなのです。しかし、イエスさんは、ユダヤの人たちが納めるべき「神のもの」とは、お金ではなく愛であると教えているのです。お金が税金として社会で行使されているように、互いに愛し合うことを通して神さまから与えられた愛を社会で行使し、愛を「神のもの」として税金のように返す神の国を造ること、それが「神のものは神に返しなさい。」という言葉に込められているのです。

 


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「最も大切なのは愛」

2025年03月29日 | 聖書のお話

「最も大切なのは愛」 コリントの信徒への手紙一 13章8~13節

 現代のイスラエルという国の、ユダヤ人と称する人たちが、パレスチナにおいて非道な虐殺行為を続けています。ネタニヤフ首相は、「我々の聖書には、アマレク人を滅ぼし尽くせと書いてある。アマレク人とは、パレスチナ人のことだ。」と公言しています。過去の例をみると、カルトと名の付く宗教団体が世間を騒がす事件を起こしましたが、イスラエルの行っている行為も同じくカルト以外の何ものでもありません。彼らの聖書も「愛」を伝えているものと思うのですが、行き過ぎた選民思想に囚われているためなのか、愛の教えに反してパレスチナ住民を虐殺し続けていることが残念でなりません。

 パウロは、生前のイエスさんから直接教えを受けたことはありませんでした。パウロは、幻の中でイエスさんと出会い、イエスさんから直接教えを受けたり交流のあった人たちから話しを聞くうちに、イエスさんの最も中心的な教えが「愛」であるという結論に至りました。パウロは回心する以前、イエスさんを信じるようになったユダヤ人キリスト者を激しく迫害し、殺していましたが、十字架のイエスさんが教える愛によって自らの生き方を180度変えました。パウロは、イエスさんの愛によって「最も大いなるものは、愛である。」と証言し、ユダヤ教の聖書に基づいて人を殺す迫害者から、愛によって人を生かす使徒に変わり、自らの生き方を変えることができたのです。

 


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