報道番組の中で、不手際があったので謝罪するというようなことですが、全体的に見ると、政府を批判することは許されないという雰囲気を作り出す方向に向いているのではないかと感じました。あるいは、そう感じさせて、そんなことではいけないという裏のメッセージを伝えているのでしょうか。(笑)外国では、政府を批判することが当たり前のことです。文明国で、日本だけが政府を批判することがタブーのようになっています。政府は、多方面から批判されることによって健全化し、本来の役割が果たされるというものです。政府は権力があるのですから、国民が批判しなければ、どんどん政府寄りになってしまうものです。沖縄の基地問題は、沖縄県民の基地反対の民意が示されているというのに、原発の問題は、国民の再稼働反対の民意が示されているというのに、それを推し進めようとしている政府は、どこの顔色をうかがっているのでしょう。そのことに反対意見を言えないのなら、それは文明国ではないし、独裁政権というものではないかと思わされます。いずれにしても、そのツケを引き受けるのは国民です。赤字のために財産を奪われるのも国民、戦地に兵隊として出かけるのも国民です。「ニコニコしている人には病気になりません」とか何とか言っている人を信じて、その日その時が来たとき慌てふためいても後の祭りです。
3月31日(火)
「悔い改め」について
ファリサイ派の人々は、イエスさまに「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と言いました。イエスさまの命を心配してそう言ったのでしょうか、あるいは、イエスさまが逃げ出すように仕向け、「逃げ出した」と悪評を立てたかったのでしょうか。いずれにしても、そこにあるのは自分が持っている人間的な思いではないかと思います。つまり、自分が主(あるじ)になっていたということです。
神さまの思いは、人間が何かの働きかけを必要とはしません。神さまの思いを成し遂げるのは、ただ神さまお一人であることをわきまえることが大切です。自分を主(あるじ)として、自分が何かの働きかけをしようとするのではなく、謙虚に生き、互いに愛し合いながら、忍耐して神さまの思いを待ち続けることが、信仰者に求められていることではないかと思います。
自分の分を超えて、神さまのようになろうとする思いをこそ「悔い改め」るようにしたいと思います。「悔い改め」とは、自分が神さまのようになろうとすること、自分が主(あるじ)になろうとすることを止めることです。確かに、自分で考え、何かをしようとする思いは大切です。そのとき、自分が主(あるじ)になっていないかを常に自問自答し、イエスさまの愛の教えに従って生きることができるようにと祈りましょう。