融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

受難週によせて 火曜日

2015年03月31日 | 日記

 報道番組の中で、不手際があったので謝罪するというようなことですが、全体的に見ると、政府を批判することは許されないという雰囲気を作り出す方向に向いているのではないかと感じました。あるいは、そう感じさせて、そんなことではいけないという裏のメッセージを伝えているのでしょうか。(笑)外国では、政府を批判することが当たり前のことです。文明国で、日本だけが政府を批判することがタブーのようになっています。政府は、多方面から批判されることによって健全化し、本来の役割が果たされるというものです。政府は権力があるのですから、国民が批判しなければ、どんどん政府寄りになってしまうものです。沖縄の基地問題は、沖縄県民の基地反対の民意が示されているというのに、原発の問題は、国民の再稼働反対の民意が示されているというのに、それを推し進めようとしている政府は、どこの顔色をうかがっているのでしょう。そのことに反対意見を言えないのなら、それは文明国ではないし、独裁政権というものではないかと思わされます。いずれにしても、そのツケを引き受けるのは国民です。赤字のために財産を奪われるのも国民、戦地に兵隊として出かけるのも国民です。「ニコニコしている人には病気になりません」とか何とか言っている人を信じて、その日その時が来たとき慌てふためいても後の祭りです。

 

3月31日(火)

「悔い改め」について

 ファリサイ派の人々は、イエスさまに「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と言いました。イエスさまの命を心配してそう言ったのでしょうか、あるいは、イエスさまが逃げ出すように仕向け、「逃げ出した」と悪評を立てたかったのでしょうか。いずれにしても、そこにあるのは自分が持っている人間的な思いではないかと思います。つまり、自分が主(あるじ)になっていたということです。
 神さまの思いは、人間が何かの働きかけを必要とはしません。神さまの思いを成し遂げるのは、ただ神さまお一人であることをわきまえることが大切です。自分を主(あるじ)として、自分が何かの働きかけをしようとするのではなく、謙虚に生き、互いに愛し合いながら、忍耐して神さまの思いを待ち続けることが、信仰者に求められていることではないかと思います。
 自分の分を超えて、神さまのようになろうとする思いをこそ「悔い改め」るようにしたいと思います。「悔い改め」とは、自分が神さまのようになろうとすること、自分が主(あるじ)になろうとすることを止めることです。確かに、自分で考え、何かをしようとする思いは大切です。そのとき、自分が主(あるじ)になっていないかを常に自問自答し、イエスさまの愛の教えに従って生きることができるようにと祈りましょう。

 

 


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受難週によせて 月曜日

2015年03月30日 | 日記

3月30日(月)

「恐れ」について

 表面的には善人のように見えても、心の内に悪意を持っていたならば、それは「偽善」であり、その悪意は、まるでパン種のように作用して、やがてその人を本当の悪人へと変えてしまうとイエスさまは言われました。そして、弟子たちに「偽善」に気をつけるようにと教えられました。
 イエスさまの教えから学ぶべきことは、不満や敵意が心の内にあるのに気がついたなら、偽善を装うのではなく、不満や敵意が小さいうちに、果たしてそう思うことが本当なのか、正しいことなのかどうなのかをよく考えて、悔い改めるべきところは悔い改め、不満や敵意を公にしてしまわないように気をつけなさいということです。私たちの心の内より敵意が溢れ、公になってしまったなら、敵意が敵意を呼び、やがて争いへと発展してしまうものだからです。
 もし、不幸にして敵意によって攻撃(迫害)を受けるとき、恐怖に囚われてはなりません。本当に恐れるべきは、肉体しか殺すことができない人間ではなく、魂を生かすことも殺すこともおできになる神さまだからです。そんな神さまは、貧しい人が捧げる犠牲の雀一羽のことさえ忘れずに愛してくださるお方です。私たちは、愛の神さまこそ恐れる(畏れる)べきではないかと思います。
 人には必ず「恐れ」があります。互いを恐れるあまり、思考が停止して、争いを起こすときもあります。イエスさまの教えは、恐れに取り憑かれてしまった後でも思い起こすようでありたいと思います。そのためにも、日々聖書に親しむことを欠かさないようにしたいと思います。本当に恐れ(畏れ)るべきは、愛の神さまだからです。
 私たちは、自分の心の内にある罪のパン種を取り除き、私たちを愛してくださっている神さまによって、人と人との間にある恐れを乗り越え、互いに愛し合う者になれるようにと祈りましょう。

 


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受難週によせて

2015年03月30日 | 日記

 昨日の日曜日から、教会暦で受難週に入りました。浜坂教会では、受難週に「受難週の聖書日課と祈り意の課題」というパンフレットを作成し、教会員の日々の祈りの手助けとなるようにしています。今年のパンフレットには、「灰の水曜日」(2月18日)から始まった受難節の主日礼拝において、受難節にちなんだいくつかのテーマをお話ししたものを要約して掲載しています。同じような内容ですが、少し変えたところもあります。日々の聖書日課と必ずしも一致しませんが、これまでの流れを思い起こしながら、大切な祈りの一時にしていただきたいと願っています。(日曜日に更新することができませんでしたので、日曜日の分から掲載します)

 

3月29日(日)しゅろの主日(イエスさまがエルサレムに入城された日)

「証」について
 
 盲人バルティマイは、イエスさまに救いを求めたそのとき、すでにイエスさまによって救われることを確信していました。それ故に、イエスさまは、バルティマイに「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。バルティマイは、イエスさまによって癒やされ、目が見えるようにされたと同時に、イエスさまが真の救い主であることを大勢の人々の前で証明して見せました。それが、バルティマイの生き様というものでした。
 「証」(あかし)とは、イエスさまが真の救い主であることを自分の言葉や行動によって証明することです。ですから、「証」をするとき、上からの知識を教えるように語ったり、自分にどれだけ御利益があったかということを自慢するように語ってはなりません。それでは、多くの人々にイエスさまが真の救い主であることを納得させることができません。だから、「証」をするときに注意したいのは、「証」を通して自分が立派な者のように見られないよう気をつけるということです。そして、「証」をすることによって、新たな罪を犯してはいないかと、注意して語り、また行動するようでありたいものです。
 これらは、あくまで理想の「証」というものです。現実は、なかなか理想にほど遠い「つたない証」しかできないのが私たちではないかと思います。それでもイエスさまに支えられて「証」ができるようにと祈りましょう。

 

 

 


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明日は礼拝です

2015年03月28日 | 日記

 明日、3月29日(日)は、しゅろの主日礼拝です。午前9時から教会学校、10時から讃美歌練習、10時15分から礼拝が始まります。メッセージは「互いが僕にならなかった」、讃美歌は「球根の中には」(今月の歌)、「あなたもそこにいたのか」、「丘の上の主の十字架」です。礼拝後には、祈りの一時をもちます。その後、会堂清掃を行います。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。

 しゅろの主日礼拝から始まる一週間は、「受難週」です。イエスさまがエルサレムに入られて後、十字架に架けられるまでの出来事について思いを寄せる週となっています。しゅろの主日には、「受難週の聖書日課と祈りのパンフレット」をお配りします。このパンフレットを手助けとして、毎日、聖書に親しみ、黙想と祈りの時を持っていただきたいと願っています。

 昨日の早朝、町内の高齢の方がお亡くなりになりました。夕刻には通夜式があり、本日は告別式が行われます。ご遺族の上に、慰めをお祈りいたします。こんなとき、いつも思わされるのが、毎日を大切に充実して過ごすということです。若い時にはエネルギーが有り余っていましたので考えもしませんでしたが、今は限られた時間とエネルギーをどう使おうかと考えないとけいないようになりました。とにかく、日々を大切に過ごしたいと思います。

 


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「誘惑に陥らぬよう祈っていた」

2015年03月27日 | 聖書のお話

「誘惑に陥らぬよう祈っていた」 ルカによる福音書22章39~46節

 「誘惑」とは、悪いことをしようとする思いとか、悪いことをするように他人をそそのかすことです。イエスさまは、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていない。」と言われました。それは、祈ることによって誘惑を防ぎ、誘惑に打ち勝つことができることを教えようとしているのではないでしょうか。実際、イエスさまは一人で祈られました。全身全霊を傾けて、天使がイエスさまを支えていなければならないほどに、そして血が滴り落ちるように汗をかきながら、ご自分の誘惑に打ち勝つために苦悩して祈り続けました。イエスさまにとっての誘惑とは、十字架を回避できないものだろうかという考えでした。そして、イエスさまは、祈りによって誘惑に打ち勝つことができました。
 弟子たちもまた、誘惑に打ち負かされそうになっていました。弟子たちにとっての誘惑とは、イエスさまが自分たちの元から去ってしまうことでした。弟子たちは、自分たちの誘惑に打ち勝つために祈り続けることができず、悲しみの果てに眠りこけてしまいました。イエスさまは、眠りこけている弟子たちに向かって「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と言われました。祈りとは、信頼を寄せる神さまとの対話のことです。祈り続けることは、神さまを信頼し続けることの表れでもあります。結局のところ、神さまを信頼し続けることによって、誘惑に打ち勝つ力を得ることもできるでしょうし、励ましも希望も与えられるのではないかと思います。イエスさまは、ご自分の誘惑に打ち勝つために、天使に支えてもらわなければならないほどの無様な姿で祈り続けました。そんなイエスさまだからこそ、弟子たちに、そして私たちに祈り続けることの大切さを教えてくださっているように思います。忘れないようにしたい御言葉の一つです。

 


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