「愛、それは聖霊だった」 使徒言行録 8章4~25節
初期の教会の人々は、ステファノの殉教後、エルサレムで大きな迫害が起こったとき、難を逃れるために散り散りになって逃げました。フィリポという人は、逃れた場所で、精神の病や身体の病を癒やしつつ、福音を宣べ伝え続けました。そこは、サマリアという場所でした。フィリポは、サマリアの人々から好意を寄せられ、イエスさまの愛の教えが受け入れられました。この出来事は、かつてユダヤの人々が自分たちの国を失い、散り散りにされ、逃れた場所で受け入れられながらユダヤ人として生活していたことを連想させられます。また、ユダヤの人たちは、サマリアの人たちと仲良くすることができなかったけれども、イエスさまを信じる人たちは、サマリアの人たちと仲良くすることができたということをも伝えているように思います。
そのことが可能となったのは、自分たちの主義主張を頑なに通すだけではなく、無償の愛をもって「仕える者」に徹することができたからではないでしょうか。誰でも「仕える者」になりたいという思いはあります。魔術師シモンという人は、魔術をもって医療を行い、サマリアの人たちに仕えていました。けれども、それは周りの人々から「偉い者」と思われたいという願望からでした。魔術師シモンは、聖霊の力をお金で買おうとさえしました。聖霊の力が、医療のために役立つと考えたからではないでしょうか。
対立の関係にある者同士が和解するための治療法は、無償の愛による奉仕ではないかと思います。無償の愛による奉仕は、イエスさまの愛が聖霊の力となって臨んだときに現れます。言ってしまえば、愛とは聖霊の働きであり、回りの人から良く思われたいというような、利己的なものではありません。