融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「愛、それは聖霊だった」

2015年07月31日 | 聖書のお話

「愛、それは聖霊だった」 使徒言行録 8章4~25節

 初期の教会の人々は、ステファノの殉教後、エルサレムで大きな迫害が起こったとき、難を逃れるために散り散りになって逃げました。フィリポという人は、逃れた場所で、精神の病や身体の病を癒やしつつ、福音を宣べ伝え続けました。そこは、サマリアという場所でした。フィリポは、サマリアの人々から好意を寄せられ、イエスさまの愛の教えが受け入れられました。この出来事は、かつてユダヤの人々が自分たちの国を失い、散り散りにされ、逃れた場所で受け入れられながらユダヤ人として生活していたことを連想させられます。また、ユダヤの人たちは、サマリアの人たちと仲良くすることができなかったけれども、イエスさまを信じる人たちは、サマリアの人たちと仲良くすることができたということをも伝えているように思います。

 そのことが可能となったのは、自分たちの主義主張を頑なに通すだけではなく、無償の愛をもって「仕える者」に徹することができたからではないでしょうか。誰でも「仕える者」になりたいという思いはあります。魔術師シモンという人は、魔術をもって医療を行い、サマリアの人たちに仕えていました。けれども、それは周りの人々から「偉い者」と思われたいという願望からでした。魔術師シモンは、聖霊の力をお金で買おうとさえしました。聖霊の力が、医療のために役立つと考えたからではないでしょうか。

 対立の関係にある者同士が和解するための治療法は、無償の愛による奉仕ではないかと思います。無償の愛による奉仕は、イエスさまの愛が聖霊の力となって臨んだときに現れます。言ってしまえば、愛とは聖霊の働きであり、回りの人から良く思われたいというような、利己的なものではありません。

 


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戦争に思いを寄せる

2015年07月31日 | 日記

今夜、映画『永遠の0』が『金曜ロードショー』(日本テレビ系)で地上波初放送される。日本アカデミー賞受賞作ということもあり、なんとなく観てみよう、と思っている人もいるかもしれない。だが、その前に、少しだけ耳を傾けてもらいたい。〟 

 このフレーズは、下の画像をクリックすると移動する記事の冒頭の一節です。それに続き

〝言うまでもなく、この映画はあの百田尚樹による同名小説が原作。本サイトは過去に、小説『永遠の0』が“戦争賛美ファンタジー”でしかないことを、作中の描写を引用しつつ論理的に指摘したが、最近、ついに本作の“検証本”が出版されたのだ。

 タイトルは『「永遠の0」を検証する ただ落涙するだけでいいのか』(秦重雄、家長知史/日本機関紙出版センター)。本書は、約300ページにわたって、『永遠の0』の小説、映画の両方を検証するものだが、とりわけ興味深いのは巻末のインタビューだ。著者の質問に答えるのは、太平洋戦争中、海軍の水上特攻隊に所属していた岩井忠熊氏。ベニヤ板でつくられたモーターボートに爆薬を積み、敵艦に突撃する特攻艇「震洋」の特攻要員だった。

 冒頭、岩井氏は、ずばり『永遠の0』は「架空の物語という感じがしますね」と切り出す──。〟

 と、記されています。ぜひ、記事を最後までお読みいただければと願っています。

 この記事が興味深いのは、元特攻要員の方がコメントしていることを紹介しているからです。やはり、現場(現実)を知っている人と、妄想で語っている人とは違うということが納得できます。8月になって最初の日曜日は、平和聖日です。戦争に思いを寄せる季節になりましたが、戦争賛美に盲従するのではなく、人間愛に従順でありたいと思います。

 

 


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キャンプから帰ってきました

2015年07月30日 | 日記

 但馬地区合同CSキャンプが、28日(火)~29日(水)にかけて、石ヶ堂古代村で行われました。浜坂教会からは、総勢19名が参加しました。初日のお天気は、時おり雨が降り、蒸し暑かったです。食事の会場が変わったりと、なかなかスタッフは大変でした。二日目のお天気は良いお天気でした。初日が二日目のようなお天気なら最高だったのですが・・・。何はともあれ、事故やケガもなく楽しく過ごすことができて感謝です。

 子ども同士が楽しく遊び、友だちとなり、自然から学んでいる姿を見ていると、私はこの子どもたちに、「戦争に行け」とは言えないという思いを新たにしました。よく、「どこかの国が攻めてきたらどうする」とか言う人もいますが、自分は何も行動せずに、自分より力の弱い子どもたちに、自分が助かりたいために、子どもの将来について、その人生や命について指図するなんて、何と品性下劣なことでしょうか。もし、本当にどこかの国と対立しているなら、それを和解へと導くために自らが立ち上がるというのが、大人の品性というものではないかと思います。そういった意味で、軽々しく戦争を肯定する大人のことを、品性下劣な人という嫌な言い方をわざとしているのです。特に、円熟したお年寄りは、軽々なことを言うのではなく、若い人たちの人生にとって、ためになることを言うべきではないかと注意喚起しておきたいと思っています。

  大人の考え方を、子どもに押しつけてはならない。

  大人の願っていることを、子どもに要求してはならない。

  大人は、子どもが願っていることが叶うように見守っていれば良い。

 最近の、世界を股に掛ける大企業に金で買われた劣化政治家たちは、自分たち一族の富を築くことしか考えていないように思います。大昔の、部族のような考え方ですね。イエスさまは、そんな巨万の富を得て、自分の将来が安泰だと思っている人に向かって、巨万の富よりも命が大切であることを教えています。同じように、お金などよりも、他人の命や子どもの命も、自分の命と同じように大切にするような生き方が、結局のところ人間にとって幸せな生き方ではないかと思います。

 


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戦争の帰結は原爆投下

2015年07月27日 | 日記

 首相や政治家といった人たちは、戦争に対する想像力というものがあるのでしょうか。従軍慰安婦の問題については、中曽根さんが想像力を持っていると思います。概して勇ましいことを言っている人たちは、ベトナムで何が起こっていたか、沖縄で何が起こっていたか、シリアで何が起こっていたか、知っているどころか想像もできないのではないでしょうか。これは、勇ましことを言っている人たちに限らず、多くの人は、自分が見聞きしていないことについて、想像することが難しいからではないかと思います。

 入ってくるニュースは、勇ましいことばかり。嘘の情報を、あたかも事実のように伝えられ、そのまま受け止めて一喜一憂したのが、戦前・戦中の出来事ではなかったでしょうか。その帰結が、あの広島・長崎への原爆投下だったと思います。原爆を投下した人たちについても、どういった被害があったのかについて想像することが難しかったのではないかと思います。自分たちから近いところではなく、遠いところの話だったからではないでしょうか。

 ですから、簡単に、戦争を了とする考えを持とうとすることに、注意しないといけません。戦争が、どれだけ人の死を招き、苦しみや悲しみが長期に継続するものかということが、本当の意味で想像できないからです。何か、戦争始めたら、いいように戦況が進むと考えたり、不利になったら我慢したら良いとか、簡単に受け止めていないでしょうか。あの、広島・長崎への原爆投下を、前もって想像できたというのでしょうか。

 戦争の帰結は、原爆投下です。まず、戦争をしようという考えを持つのではなく、戦争をしないで済むように知恵を絞ることが求められています。簡単に、自分の子や孫を兵士として戦場に送るような決断をして良いのですか? 夢から覚めてますか?

 

 


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イエスさまの愛がクリスチャンのお手本

2015年07月27日 | 日記

 今日は、曇り空で強い日差しがなく、何となく過ごしやすいような気がします。午後からは、雨も降るという予報です。明日は、但馬地区合同CSキャンプがありますが、さてお天気はどうでしょうか。子どもたちにとって、夏休みの楽しい思い出になるようにと願っています。

 夏休みを過ごす子どもたちを見ていると、命が輝いているように見えて感動させられます。身体も成長し、考え方も大人になっていくだろう子どもたちを見ていると、歳を取って、体もあちこち痛くなっている自分と比べて、羨ましく思います。この子どもたちが、自分たちの未来を信じ、希望をもって生きることができるようにすることが、歳を取って老い先短くなった私の責任ではないかと感じています。

 今、多くの歳を取っている人が、戦争を了とする考え方を持っているのではないかと感じています。どんな理屈をつけても、その人たちの老い先はたかがしれています。一方で、未来を生きようとしている子どもたちの人生は、長く、可能性に満ちています。歳を取っている人が、戦争を了とする考えを持つということは、子どもたちの未来のことなど考えもせず、その命を奪ってしまうことを何とも思わないということです。

 歳を取ってしまい、感性が鈍くなり、思考が停滞することもあるだろうと思います。いくら威勢が良いことを言ったとしても、自分のことしか考えてないとしたら、その考えは品性下劣と言わざるを得ません。なぜなら、子や孫たちに「戦争に行け」と言い、「死んでこい」と言っているのだからです。自分は高い所にいて、子や孫の命を生け贄にして、自分の欲求を押し通し、人によっては利権を貪ろうとしたり、そんなことは悪魔の所行としか言いようがありません。

 イエスさまを信じ、その愛の教えを守っているキリスト者と呼ばれている人たちは、悪魔を信奉しているわけではないと思います。にも関わらず、世界のクリスチャンと呼ばれてる人たちや政治家も、戦争を了とする考え方を持っているというのはどういうことでしょうか。クリスチャンの皮を被った悪魔なのでしょうか。悪魔の所行ではなく、平和を創り出すために苦悩したり、お手本を示すといったことができないのでしょうか。それぞれが、自らの「品性愚劣度」を計ってみてはどうかと思います。

 集団的自衛権などと言って、戦争をしかけるのではなく、相手が責めてきたら、個別的自衛権で対応できるじゃないですか。何で、他国にまで戦争をふっかけなければならないのでしょうか。いくら「したり顔」になって話をしたとしても、結局子や孫の命を差し出し、外国に出かけて行って人を殺し、女性をレイプして殺すことを了としているのです。それを、悪魔に仕えていると言っているのです。

 イエスさまって、本当に凄い人だったと思います。なぜなら、自分を殺そうとしているどうしようもない人のために祈り、その人の罪を赦そうとしたからです。それが、クリスチャンのお手本ではないかと思わされます。

 


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