融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

不安「低」

2015年12月31日 | 日記

 今年を振り返って思うことは、不安定な時代を迎えたな、ということです。正確にいうと、「不安」、「低」、不安低です。「不安」は、ざっくり言うと様々な行き詰まりの結果として、不安が増したという意味です。「低」は、ざっくり言うと生活が苦しくなるという意味です。世の中が、またそれぞれの生活が不安低になると、生活の質(知的、文化的水準)が落ちます。そして、いつの間にか一部の人に富が集中し、多くの不安低な人たちが、知らないうちに貧しくさせられてしまうようになります。

 不安低な世の中では、戦争がやりやすくなるものです。今度の選挙で、与党が3分の2位上を獲得し、平和憲法の改憲を言い出すでしょう。戦争によって、軍産が儲ける社会構造に向かって行くでしょう。そのためにも、多くの人たちが不安低でなければなりません。そして、不安低の人たちの中から、サラリーを得るために戦場へと送り出される人が出るでしょう。一部の金持ちや、制服組は、決して戦場へは行きません。戦場へ行き、武器を消費し、命も消費させられるのは、不安低な人たちではないでしょうか。

 中東で、どうして争いが絶えないのでしょうか。それは、その地域の人たちが不安低にさせられているからで、サラリーを得るために戦場で銃を撃っているのではないでしょうか。戦争は、兵士に払う給料と武器を買うお金がないとやっていけません。誰が出しているのでしょうか、そこに軍産の「マッチポンプ」があることを思わざるを得ません。アルカイダ、そしてISIS、次は何なのでしょうか。いつも悪役をさせられているのはイスラムです。というと、本当の悪者は、それと反対の・・・・。

 そんなことを考えると、今、日本が不安低にさせられているのは、これからしようとしている大きな目的があってのこと、あるいは地ならしではないかと思わざるを得ません。私の考えが、単なる心配であることを願っています。いずれにしても、今、どうして不安低なのか、これから何が起ころうとしているのか、人は知性をもって考える必要があるような気がします。

 


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年末修養会に参加しました

2015年12月30日 | 日記

 レラの会(北海教区と関わりのあった方々を呼びかけ人とする会)の修養会が、12月28日~29日、福岡警固教会を会場にして行われました。第3回となる今回の講師は、後宮さんでした。革新・連帯・平和について、改めて教えられましたが、考えてみれば、先生と土佐教会で初めて出会った時から教えられていたことのように思い出されました。それと、「聖書には、社会の物語と違った物語がある、それがおもしろい」といったようなことを話されましたが、その言葉は出会った当初にもお聞きしたような気がします。そのうちに、そんな物語を自分も造ってみたいと思うようになり、牧師を志したことを思い起こしました。考えてみれば、受けた影響は絶大だったと思います。

 今回の修養会では、懐かしい人たちと、たくさんの再会があり、嬉しかったです。また今後、多方面からのつながりも予感させられます。新しい出会いにワクワクします。それぞれのご活躍をお祈りしています。次回は、関西で行うことになりました。

 

*サンタさんがプレゼントしてくれた水槽に、どじょうを移しました。


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今年最後の礼拝です

2015年12月27日 | 礼拝のご案内

 27日(日)は、歳晩礼拝です。午前9時からの教会学校、10時から讃美歌練習、10時15分から礼拝が始まります。メッセージは「希望をもって礼拝した」、讃美歌は「朝日は昇りて」、「羊はねむれり」、「いそぎ来たれ、主にある民」です。礼拝後は、祈りの一時、会堂清掃、お茶の一時があります。どなたでもご出席ください。

 小さな浜坂教会ですが、今年も多くの方々に支えられ、励まされ、特に地域の方々と共に歩めましたことを感謝いたします。それぞれに喜びあり、感謝あり、また悲しいこともあったと思います。お一人おひとりの上に、信仰に基づく希望が与えられて、新しい年も共に歩んで参りたいと願っています。

 

 

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「預言の通り実現した」

2015年12月26日 | 聖書のお話

「預言の通り実現した」 マタイによる福音書 1章18~25節

 イエスさまが誕生する前、700年もの昔、預言者イザヤの時代、周りでは諸外国が戦争をしていました。国の指導者は、この状況に巻き込まれ、様々な政治的な判断を行いました。それは、多分に人間的な思惑に支配された判断であり、必ずしも信仰的な判断ではありませんでした。そんな中でイザヤは、ただ神さまを見上げ、神さまだけを信頼して右往左往してはならないと教えました。そして、神さまは、我々と共におられる救い主を生まれさせてくださるという希望を、インマヌエル預言として残しました。

 ヨセフは、婚約者のマリアが身ごもっていること知ったとき、密かに離縁しようとしました。身に覚えがありませんでしたが、争うこともしませんでした。けれども、夢で天使が現れ、マリアが聖霊によって身ごもったこと、その子が救い主になるというお告げを受けました。お告げ、それは神さまの言葉のことでした。ヨセフは、神さまを見上げ、神さまだけを信頼して右往左往することなく、マリアを迎え入れることにしました。ヨセフは、マリアへの愛と神さまへの信仰をまっすぐに貫き通しました。

 マタイによる福音書には、「預言の通り実現した」という言葉が数多く記されています。これは、どういう意味なのでしょうか。過去に預言者が残した言葉が成就したという意味でもありますし、過去に一人の信仰者として生きた預言者の姿と、今を一人の信仰者として生きている人の姿が同じであるという意味なのかもしれません。何だか、預言者イザヤの姿と、ヨセフの姿が重なって見えてくるような気がします。「預言の通り実現した」という言葉の意味を考えたとき、そのようなことを思い起こしました。

 


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「クリスマス・イヴ賛美の集い」が終わりました

2015年12月25日 | 日記

 年末最後の大きな行事、クリスマス・イヴ賛美の集いが終わりました。合唱で、「さやかに星はきらめき」を歌いました。私の好きな讃美歌で、歌えたことで感激しています。地域のラヴェンダーズというグループが合唱隊(聖歌隊)になって、会を盛り上げてくださいます。春から練習を始めているのですが、教会に足を運んでくださるので、色々な意味で教会が地域で用いられていることを思います。ありがとうございます。

 子どもたちのページェントですが、本当に堂々としています。考えてみれば、集まって来られた方々は、みな地域の方々で、知っている人ばかりなので、安心しているのでしょう。他のイベントでも、何かと活躍している子どもたちも多いです。練習を始めた頃は、何だか嫌そうな反応もあり、心配もありましたが、当日になると、やるときはやるもんだなぁと感心させられました。見守り、見守られ、浜坂の良いところだと思います。いずれにしても、子どもたちにとって、クリスマスが楽しい、豊かな一時として記憶に残って欲しいと願っています。

 クリスマスという行事が認知され、商業的にも浸透していますので、どこでも広く受け入れられているように思います。けれども、それは多分にパーティーとして受け止められているのではないでしょうか。それは、それで良しとして、教会で行うクリスマスは、パーティーの一つとして終わるのではなく、楽しみの中にも、クリスマスの意味について知って欲しいとの願いを込めて、お話をさせていただいています。お話が、集うお一人おひとりの心に残るものであって欲しいと願っています。

 今年は、前回の反省を踏まえて、会堂と集会室の引き戸を取り払いました。前回は、80名の方々が来てくださり、間仕切りがあったために、たいへん窮屈な思いをさせてしまいました。それで、引き戸を取り払えば、間仕切りがなくなり、何だか広々とした感じになります。空気の循環も良くなり、空間も広く感じられます。今年は、概算で77名の参加があり、用事で欠席されるとの連絡をいただいた方々もおられました。なので、前回に比べて、格段に居心地が良かったと思います。実は、前回の反省もあり、今回は、あまり積極的にお誘いするのを躊躇していました。けれども、この調子なら大丈夫なのが分かりましたので、来年は、もっと積極的にお誘いしようと思っています。

 

 


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