明日、12月31日(日)の礼拝は、お休みします。皆さま、どうか良いお年を。
2023年もまた、激動の時代でした。友人や知人が亡くなったという知らせも多かったです。自分も、いつ亡くなるやらと思うと、一日いちにちを大切に過ごさないといけないと考えさせられます。身近な方々も、入院したり手術を受けられたりと大変でした。私もここ何十年と罹ったことのないインフルエンザになり、発熱とはこれほどしんどいものなのかと気づかされました。
ここ数年、私は教会でお話しをするとき、幅広く多岐に渡ってお話しをする時間や余裕などないと判断し、キリスト教で一番話さないといけない大切なことに絞って話そうと心がけてきました。意見は色々あると思いますが、「愛」に絞ることにしました。2千年のキリスト教の歴史を振り返ると、イエスさんが教えた愛を伝えて来た筈です。けれども、世界はちっとも良くならないで、愛とは正反対の殺戮の限りを尽くすという方向に進んでいるように思います。その原因は何かについて考えてみたところ、それは「自分愛」が過ぎているためではないかと思います。
自分の欲望を第一として、他人の土地や命までも奪っても、良心の呵責もない、それを言い換えると「自分愛」です。他人の土地を奪っても、命を奪っても、人生を奪って奴隷にしても心の痛みもない、そんな植民地主義もまた度が過ぎた「自分愛」だろうと思います。現在の世界もまた、「自分愛」に満たされています。そもそも人間とは、そういう生き物なのかも知れません。しかし、不思議なことにイエスさんは、人間の「自分愛」を否定していないように受け取れます。「自分愛」を肯定した上で、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』と教え、道を示しています。人は、自分を愛することについて分かっているところがあります。全ての人が自分にして欲しいように他人に同じことをしてあげれば、恐らく大きな問題は起こらないのではないかという理屈も分かっている筈だと思われます。
一方で、善意を逆手に取られて詐欺の被害に遭うということも起こり得る世の状況があると思います。どうすれば他人に騙されないで他人を愛することができるだろうかと考えたりします。「他人に騙されず他人を愛する」という悟りのようなスキルを身につけるには、他者が歩んで来た歴史を学び、他者との関わりを通して自分を広げることが必要不可欠です。それができるのは若い人の特権なのですが、若い人が飼い慣らされている状況があるような気がします。教会が有意義な示唆を得ることができる場所なのか、あるいは益々「自分愛」を追い求める御利益追及の場所でしかないのか、色々なことを堂々巡りしながら考えさせられているところですが、なかなか答えが見つからずにいます。いずれにしても、自分の力不足を痛感するばかりです。