「イエスと私の約束だった」 コリントの信徒への手紙一 11章23~26節
「主の晩餐」や、後の時代の「聖餐式」は、教会が「制定」したものでした。「制定」したのは人間ですが、オリジナルはイエスさんとのいわるゆる「最後の晩餐」でした。ですから、人間が「制定」したものの上位にあるのが、オリジナルであるイエスさんの「最後の晩餐」なのです。イエスさんは、パンと杯を共にしたことを忘れないように記念しなさいと教えられました。パンを食すのはイエスさんの愛や志を受け入れなさいと教えられたこと、杯を飲むのはイエスさんが十字架によって人々の罪を赦し、救ってくださるという契約を、しかもその契約は人間の資質を問うことなく、罪深いままで交わしてくださった契約であったことを想起するためのものでした。
「聖餐式」にどのような「制定」があったとしても、イエスさんと私の約束であることに変わりありません。イエスさんと一対一の約束を想起しているのですから、他人のことに目移りしてみたり、他人のことをとやかく言う余裕などないように思います。あの「最後の晩餐」のとき、弟子たちはパンの意味も杯の意味も何も分からず、その後もオリーブ山でイエスさんを見捨てて逃げ去ってしまったのですから、たとえ「聖餐式」の意味が分からない人がパンを食し、杯を飲んたとしても、それはイエスさんが「先取りとして与えてくださった恵」として受け止め、人が止めさせたりする必要などないと思います。