本日、29日(日)の礼拝は、お休みします。
近年、メールやLINEなどを活用する人が多くなり、私のところにもクリスマスの挨拶などが来るようになりました。近況をお伝えいただき、お気遣いやねぎらいの言葉をいただき、ありがとうございます。
クリスマスは、私が生まれる前からずっと世の中で広まっていますので、私がとやかく言っても仕方がないくらいです。振り返ると、商業的で娯楽的な世のクリスマスにあって、「本来の意味はこんなんですよ」みたいなことを伝えて来たように思います。時に「本当の意味は」などと粋がってしまったこともあり、お恥ずかしい限りです。
クリスマスの物語は物語として、そこに込められている願いや意味をなるべくたくさん吸収したいと思うのは人情というものです。宗教的なものとしても、人間的な物語としても味わい深いと考えています。要は、自分がどのように受け止めるかが大切です。
これまで職業牧師としてがむしゃらに突っ走って来たつもりなのですが、イベントを実行する忙しさもあり、わが身を見つめ直す時間もなく、口内炎をいくつも作りながら、ただクリスマスを苦しみマスとか疲れマスとか感じながら、終わったらバタンキューしていました。ところが、ここ数年、コロナや教会学校の休止、その他の事情により、イベントクリスマスではないクリスマスを重ねて来ました。そうすると、不思議なことに、これまで感じていたのと違うクリスマスを経験することができました。
クリスマスは、人と人との関わりを深める行事でもあります。人と人との関わりは大切です。その関わりが薄くなった分、私の場合はイエスさんに思いを寄せる時間がたくさん作れたように思います。クリスマスなのに、不思議な経験です。なので、昨年と今年のクリスマスでは、ガザでの虐殺に心が痛み、クリスマスをお祝いする気分になれないのが正直な気持ちです。同時に、イスラエルがパレスチナを占拠した時からずっと殺戮が繰り広げられていたのに、そのことにどれだけ思いを寄せていたのかを問われたようで、穴があったら入りたい気分でいます。
とは言え、人の考え方は人それぞれでもあり、何が正しいのか間違っているとかは、立場にもよるので一概には言えません。いずれにしても、その人の生き方次第なのだろうと思う今日この頃です。
本日12月24日(火)午後7時30分より、クリスマスイヴ礼拝を行います。聖書の朗読と賛美歌を歌い、浜坂にお住まいの方々の祝福と世界の平和を祈って終わります。今年も、第2部という形のイベントを行うことができませんでした。実施するには諸準備が必要で、年度当初に役員会で話し合い、総合的に実施できないと判断するに至りました。第2部があってこそ、地域の方々が来易くなりますから、やりたい気持ちはあるのですが、これが今の精一杯というところです。また、新しい風が吹いて、事前の準備を積み重ねることによって実施できるようになると思います。今後の課題です。教会の高齢の会員の方々には、ご自宅にて覚えていただくようにしています。
明日12月22日(日)は、クリスマス礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「馬小屋は愛」、賛美歌は「主を待ち望むアドヴェント」(4番)、「きよしこの夜」です。聖餐式があります。礼拝後は、祈りの一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。なお、明日は大丈夫かと思いますが、悪天候の場合、礼拝を中止することもあります。
クリスマスにお祝いをしたり、「メリークリスマス」と言うのは、私が生まれる前から世界規模で出来上がっていたことです。いまさらどうこう言っても仕方ないくらい、特に深く考えることなくクリスマスを迎えています。一方で、私も歳を取ったのか、状況に応じて考えることは大切ではないかと思うようになりました。
仮にイエスさんの気持ちになってみたら、自分の誕生を祝福してくれるのは嬉しいのだけれど、同じ様な赤ちゃんや小さな子どもが飢えたり殺されたりしているのに、神の子とかおだてられても嬉しくないのではないかと思ったりします。神の子だとかおだてる暇があったら、困っている人たちを助けたら良いんじゃないかと考えるに違いありません。
もしかすると、クリスマスを祝うと言っても、別にイエスさんの誕生だからというのではなく、自分たちが楽しみたいからしているのだ、というのが本音なのかも知れません。楽しいことは、悪いことではありません。しかし、他者を思いやる気持ちとか、愛とかを忘れてしまうような楽しみなら、それは本当の楽しいことなのでしょうか。
そう考えると、全ては自分の有り様次第なのだと思う今日この頃です。
「名前よりも愛」 ルカによる福音書 1章57~66節
人が生まれたとき、親は子どもに名前を付けます。名前には、親が「こうなって欲しい」という願いが込められているものです。名は体を表す、と言います。その人の名前が、その人の生き様を体現しているという意味です。私たちの周りを見渡してみても、実際にその人の名前と生き方が重なっている人が多いように思います。
高齢のエリサベトが男の子を産んだ際、近所の人々や親戚が集まり、父の名前を取ってザカリアと名付けようとしました。エリサベトは、「いいえ、名前はヨハネとしなければなりません。」と言いました。口がきけなかったザカリアは、字を書く板に、「この子の名はヨハネ」と書いて見せました。すると、たちまちゼカリアの口が開け、舌がほどけて神さまを賛美し始めました。
ヨハネという名前には、“主は恵み深い”という意味があります。大人になったヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを授け、社会の変革を促して平和へと導くために働きました。それは、悔い改める者を赦して生かす、神さまの深い恵みの表れでした。そのような業を成す大人へと育つことができたのは、名前を付けた親から深い愛を注がれたからに違いありません。確かに、名前はその人の生き様を表すものです。しかし、名前よりも愛が大切なのです。