融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

なかなかユーモアがあります

2017年01月31日 | 日記

 「晋ゴジラ」だなんて、なかなかユーモアのセンスがあります。国民は、政治に関する自分の考えを表明できる権利があります。

 画像をクリックすると、画像を作成された方のサイトをご紹介します。

 


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播州地区教師一泊研修会

2017年01月31日 | 日記

 昨日から本日にかけて、播州地区教師一泊研修会が龍野の志んぐ荘で行われました。但馬地区へもお誘いくださり、香住の小林さんと私が但馬地区から参加させていただきました。

 播州地区教師一泊研修会では、学びがあり、ゆっくりと話をしたりと、有意義な時間を過ごすことができます。今年は、テゼ共同体について学ぶ機会が与えられました。まとめの会で、数人かで感想を述べ合う状況になり、私も個人的な感想を述べさせていただいたのですが、ローマ法王がテゼ共同体を訪ねて、活動を評価するスピーチをされたというくだりをとって、「胡散臭い」などと悪態をついてしまったことを後悔しています。*胡散臭いのは、講師の方ではなく、ローマ法王の方です。

 それで、浜坂に無事帰り着いて、自動車から降りてみると、何だか寒いです。龍野は、暖かかったです。聞けば、昨日は、風も強かったそうです。研修会のときは、色んな意味で楽しかったのですが、日常に戻ると、多少なりとも反動が出るものです。ちょっぴり、寂しくなりました。

 学んだことが、日常の場で生かされるようにと願っています。
 
*写真は、撮り忘れていました。

 

 


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お向かいのご葬儀

2017年01月28日 | 日記

 教会のお向かいのおばあさんが、一昨日お亡くなりになりました。前の日には、いつものように道を歩いておられ、連れ合いと子どもは挨拶を交わしたそうです。

 90才を過ぎておられ、少々耳が遠かったので、私も挨拶をする時は大きめの声でするようにしていました。気さくで、おだやかなおばあさんでした。庭の柿をいただいたこともありました。

 昨日、通夜があり、本日の朝、葬儀場への出棺がありました。私も、お向かいですので、何かお手伝いをと思っていましたら、町内の方々と一緒に、おばあさんを霊柩車に乗せるために棺桶を担ぐというお手伝いができました。

 ほんの少しのことですが、地域の共同作業に加えてくださり、有り難いと思っています。ここ数年、雪が降ったときなど、おばあさんの家の玄関前の雪かきをしたりしていましたが、今年は息子さんが暮れからずっと来られていて、雪かきもされていました。おばあさんは、息子さんやご家族に見守られてお亡くなりになり、今は天国で平安のうちにおられるのだろうと思います。お向かいの者としては、少し寂しいです。

 

 


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明日は礼拝です

2017年01月28日 | 礼拝のご案内

 明日、1月29日(日)は、主日礼拝です。午前9時からの教会学校、午前10時15分から讃美歌練習、午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「悔い改めと希望」です。讃美歌は「主よ、わたしたちの主よ」(今月の歌)、「いともとうとき」、「すべての人に」です。礼拝後は、祈りの一時、会堂清掃、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 今日は、豊岡教会を会場にして、世界祈祷日の集会を超教派で行うために、但馬にある超教派の諸教会・伝道所の準備会がありました。それぞれに、背景や伝統の異なる教派に属していますので、それぞれの日常が同じかというと、そうでなかったり、あるいは同じであったりするかもしれないし、とにかく共に何かを作業することを通して相互理解が深められ、思いが通じ合えるようにと願っています。

 一般的にも話し合いの以前の問題として、自分の思うこと、相手の思うこと、互いの思いが何なのかを知ることが大切ではないかと思います。年に一度の但馬世界祈祷日の集会ですが、教派を超えて交流が深められるようにと願っています。暦では、3月3日が「世界祈祷日」になっていますが、但馬では3月4日(土)午後2時から行うことになりました。場所は、浜坂教会になりました。おっと、それまでに水漏れを直さなければ・・・。

 準備会の後、第5回の但馬地区委員会が行われました。どこも厳しい状況であるという現状ですが、だからこそ明るく、教会とは、宣教とは、教師とは何か等々を見つめ、後に引くことなく共に歩みましょうとの思いを共有することができました。自分のところだけでも存続が危ぶまれていると思ったりするのに、誰も欠けることなく皆で存続しましょうというのは、かえって敷居が高くなって困難な気もしますが、自分のところだけでは無理だと思う一方で、皆でやればできそうな気もするという不思議な気持ちもします。




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「神の恵みが共にあった」

2017年01月26日 | 聖書のお話

「神の恵みが共にあった」 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節

 マルコによる福音書には、イエスさんの復活を弟子たちの怖れる姿を通して伝えています。死んだ人の復活という、人間にとって理解できない出来事に対する怖れだったのかも知れません。弟子たちにとっては、裏切り、見殺し、無理解といった、イエスさんに対する仕打ちの行き着く先に十字架の死があり、その罪悪感からイエスさんの復活の姿を正視できず、恐れるしかなかったのだろうと思います。

 回心する前のパウロは、イエスさんを信じた人たちを迫害し、死に至らしめて来ました。パウロが幻で復活のイエスさんと出会ったとき、たいそう怖れたに違いありません。その怖れとは、迫害と殺人が間違いであったと自覚する罪の意識に他なりません。復活のイエスさんは、パウロを断罪するどころか、罪を赦し、使徒として歩み始める道を示しました。そうしてパウロは、イエスさんの復活を罪の赦しの福音であったと確信するに至りました。

 パウロは、コリントの教会にあって自分の信仰を自慢している人たちに向かって、正しいと思っていることであっても間違いがあることを認め、悔い改めるようにと教えています。パウロは、手紙を通して断罪するのではなく、復活が罪の赦しであったという神の恵みの福音を思い起こさせようとしています。

 


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