融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「困難を前にして」

2020年05月22日 | 聖書のお話

「困難を前にして」 ヨハネによる福音書 16章25~33節

 困難とは、自分を苦しめたりする問題などのことです。災害によって引き起こされたりもします。新型コロナ渦もその一つです。そのような困難を前にしたとき、私たちはまず困難の原因を考えます。次に、知恵を尽くし、努力の限りを尽くして対処の方法を探ります。その結果として、困難を乗り越えることができたなら、その困難は自分を鍛え、高めるためにあったのだと肯定的に受け止めることができたりもします。しかし、残念ながら困難を乗り越えることができず、万策尽きたと思うしかなくなったとしたなら、否定的になり、もはや神頼みしかできなくなってしまうところがあります。

 一方で、私たちには、十字架によって苦しみを受けられ、復活を通して死に勝利され、そうして私たちを罪のない者としてくださったイエスさんを神と信じる信仰があります。それは、神であるイエスさんが約束されたように、聖霊が困難を前にしている私たちを助け導いてくださることを信じて疑わないということでもあります。私たちの信仰とは、万策尽きて最後にたどり着く神頼みのような信仰ではなく、困難に直面している私たちが挫けてしまって否定的にならないように、最初から与えられている力なのです。そのような信仰に支えられている者は、自然と生き方にも違いが現れるものではないかと思います。

 


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ウイルスをブロックではなく、PCR検査をブロック

2020年05月20日 | 日記

 文中に「ウイルスをブロックではなく、PCR検査をブロック」とあります。この国の医療体制は、誰のために何の目的で行われているのかを考え直さなければならないと思います。その上で、一から作り直すべきではないかと思います。

 知人の体験なのですが、医師がPCR検査の検査が必要と電話で保健所に伝えているのに、保健所が受け付けないそうです。病人を見ている医師の判断より、保健所の判断が上なんて、誰が考えてもおかしいです。その、おかしいことがまかり通っています。

 


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「困難を恵みとする」

2020年05月16日 | 聖書のお話

「困難を恵みとする」 ヨハネによる福音書 15章18~27節

 自然界での動物は、しばしば雄が子を殺すことがあります。しかし、雌は子どもを殺したりはせず、子育てを貫徹します。言い換えると、母親は、社会や環境がどのようであっても、自分の子どもを守り育てるということを貫徹する存在であるように思います。母親は、社会から迫害を受けたとしても、子どもを見捨てたりはせず守り通します。母親とは、社会に抗ってでも子どもを守る存在なのです。それと同じように、イエスさんの教えを信じる者は、社会から迫害を受けたり困難に直面したとしても、神であるイエスさんが必ず守ってくださるという約束を忘れてはならないと思います。

 また、迫害を受けたり困難に直面したとき、それがイエスさんの教えを守っていることの証明になる時もあります。だから、迫害を受けたり困難に直面できたことをむしろ恵みとして受け止めて、前向きに歩むことの大切さが教えられているように思います。しかし、地上でのイエスさんと共に歩んだ日々は、もうありません。イエスさんを信じる者は、一人で歩まなければならない状況にあります。そんなとき、聖霊が助け手となってイエスさんを信じる者を支えてくれるとの約束について教えられています。さしずめ、神さまが父と称されるならば、聖霊は母と称されるべき存在であるように思われます。

 


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未来の子どもたちを飢えさせないために

2020年05月15日 | 日記

 農村地域である但馬に無関係でいられない種苗法改正案が「不要不急」と「自粛」を訴える最中で採決されようとしています。私たちの「食」と「農業」の問題であり、教会で言うところの「いのち」の問題でもあるのですが、農村地域にある教会や伝道所さえこの問題に対する関心が薄いように思われます。

 農村地域にある教会や伝道所は、農業をお花畑のように捉えたり、「いのち」という言葉を綺麗なフレーズとして捉えたりしない環境で暮らしているはずなのですが、実際は都会的な考えの中で育った都会っ子が牧師であったりしますので、農村地域にある諸課題を担える力量もないというのが現実です。

 聖書にも「一粒の麦」の話があるように、種は暮らしと「いのち」に深く関わると同時に、教会にとって親しみのある話題です。にも関わらず、農業に感心がない理由を「社会状況の変化」と片付けてしまい、何の疑いも持っていないところがあるように思います。それは、言い換えれば「怠惰と無関心の罪」ではないかと思います。

 種苗法改正案が通ってしまい、アグリ企業が種を自分たちの物として登録したなら、農家はこれまで自家栽培できていた種までも企業から買わなければならなくなってしまいます。農業が農民を主役とするのではなく、企業を主役とするものに変わってしまうと、そのことが農民のくらしを破壊してしまうことになりますし、益々食料自給率が低下してしまうと識者をはじめ、たくさんの人たちが警鐘を鳴らしています。

 怠惰と無関心の罪のために、農業衰退、食料自給率の低下、食糧不足をもたらし、未来の子どもたちを飢えさそうとしているのではないか、そんな想像力を持ちたいものだと思います。しかし、自分自身への反省も込めて、そんな想像力さえも失ってしまうのが怠惰と無関心の罪の恐ろしさではないかと思います。

 

 


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「羊を飼うように」

2020年05月09日 | 聖書のお話

「羊を飼うように」 ヨハネによる福音書 21章1~31節

 イエスさんは、心も体も飢え乾いて裸同然であった弟子たちと共に食事をし、励まされました。食事の後には、ペトロに向かって「この人たち以上に私を愛しているか」と三度も同じ質問をし、質問に答えたペトロに三度も同じように「私の羊を飼いなさい。」と言いました。ペトロにとって、「この人たち」とは他の弟子たちのことであり、「私の羊」とはイエスさんを信じる弱い立場の人たちのことではないかと思います。そうすると、ペトロは、イエスさんから他の弟子以上に私を愛しなさい、弱い立場の人たちを助けなさいと念押しされているように思えます。

 そう言われた後、きっとペトロは「自分はそこまで念押しされなければならない駄目弟子なのか」とへこんでしまったことでしょう。一説によると、ペトロは岩のような信念の持ち主であったと伝えられています。若い時には、自分の信念に従ってブイブイ飛ばしていたのだろうと想像します。しかし、それは必ずしもイエスさんを愛することでもなく、イエスさんを信じる弱い立場の人たちを助けることにもならなかったのではないでしょうか。むしろ、自分の意に反するようなことを受け入れるざるを得なくなってからの方が、本当の意味で神さまの栄光を現すことになると教えられているのではないでしょうか。

 


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