明日6月25日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「愛を喜ぶ」、賛美歌は「来たれ聖霊よ」、「聖霊よ、降りてです。感染症対策に留意して礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。
平時は人を殺してはいけませんと言われ、戦時は人をたくさん殺しましょうと言われるのです。考え方が、逆転するのです。悪いことが正しいことになり、正しいことが悪いことになるのです。
某国営放送のニュースを見たら、アゾフ大隊の幹部みたいな人を反転攻勢を頑張っているヒーローみたいに扱っている記事がありました。ちょっと待て、アゾフ大隊ってウクライナ東南部のロシア語話者住民を迫害、ロシア人をいくら殺しても構わないと公言するネオナチじゃないでしょうか。もはや、ニュースの内容が戦時です。人をたくさん殺した人を英雄に仕立てています。
どこぞの国では、食料自給率も低い、農業政策は出鱈目、農業を守る気概もない、軍備は増税しても増強、それで戦争の仲間入りをする気のようです。食料も豊富、資源も豊富、経済も豊か、それで戦争するというなら賛成はしないけど、総合的に考えているという点で理解はできます。そのような国ではなく、戦争を始めたら、たちまち食料や資源が輸入停止となり、国民が飢え、暑さ寒さに苦しむことが目に見えている国にとって、戦争に向かうことは自滅行為になるでしょう。戦争へと進む軍備拡張は、やがて必ず若者を戦場へと向かわせます。そんなことは、賛成もできないし、あまりにも無考えで愚かなので、理解もできません。
見ず知らずの方からお電話があり、ご献金をしてくださるとのことでした。文脈からクリスチャンの方だろと思われます。あまり多くは語らないその様子から、聖書にあるように「右の手のしていることを左の手に知らせない」という信仰が滲んで来るようでした。こちらは献金を受ける側でもありますので、こちらから色々と聞くのもどうかと思い、その方の信仰と考えを尊重し、感謝の思いをお伝えするのみで電話での短いやり取りを終えました。
しばらくしたら、銀行から入金のメールが入り、先ほどのお電話の方からのご献金が振り込まれていました。浜坂教会としては、大変助けていただいたという思いです。分からない部分は分からないなりに神さまに委ね、電話でのお声からその方の人柄など想像しつつ、感謝してお祈りいたしました。
○○さん、ご献金を心から感謝いたします。○○さんのことは全く存じませんが、困った時には神さまのお守りと励ましがあり、祝福のうちに日々を過ごされますように。おそらく色々と良いお働きをされていることと存じますが、健康が守られますようにと心からお祈りいたします。
「せめて服にでも」 ルカによる福音書 8章40~56節
イエスさんを喜んで迎えた群衆の中に、会堂長をしているヤイロという人がいました。彼は、イエスさんの足下にひれ伏して、自分の家に来て死にかけていた12歳になる一人娘を癒やして欲しいと願いました。
イエスさんがヤイロの家に向かう途中、12年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしても治らなかった女性が、イエスさんに近寄って後ろから服の房に触れました。「せめてイエスさんの服にでも触れれば癒やしてもらえる」と思ったからです。服に触れると、たちまち出血が止まり、彼女は癒やされたことを実感しました。すると、イエスさんは、「わたしに触れたのは誰か」と言って探し始めました。彼女は震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒やされた次第を皆の前で話しました。イエスさんは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言いました。信仰とは、願い求めることが必ずその通りになると確信して行動することであり、彼女はその信仰によって救われたのです。
その出来事の最中、会堂長の家から人がやって来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言いました。先の出血が止まらなかった女性と、死にかけていた一人娘を持つ会堂長の家の人たちに共通するのは12年という歳月ですが、それ以外に何が違っていたのでしょうか。イエスさんは、願い求めることが必ずその通りになると確信して行動する信仰が大切であることを教えるために、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と会堂長に言いました。
明日6月18日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「せめて服にでも」、賛美歌は「来たれ聖霊よ」、「聖霊よ、降りて」です。感染症対策に留意して礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。