融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2023年09月30日 | 礼拝のご案内

 明日10月1日(日)は、世界聖餐日の礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「本当の富は愛」、賛美歌は「主よ、わが身を」、「やすかれ、わがこころよ」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 世界聖餐日の礼拝には、聖餐式が行われます。聖餐式を通して互いに違いを乗り越え、宣教のために一致しましょうというような願いがあります。しかし、世界を見渡してみると、互いの違いのために争い合い、殺し合うという状況が絶えることがありません。実際の殺し合いは、遠い戦場で行われているように思われますが、私たちのお茶の間においても情報戦が繰り広げられています。そこで、よく知りもしないにも関わらず、相手を殺しても何とも思わないような恐ろしい感情を知らず知らずのうちに植え付けられたりもしています。残念なことに、よっぽどしっかりしていないと、そのことに気がつくことはできません。世界が大転換を起こしているような中、教会もまたこれまでの論法や手法を捉え直す必要があるのかも知れません。

 先週は、インフルエンザに罹患してしまい、急遽礼拝をお休みしてしまいました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。新温泉町でもインフルエンザやコロナが流行しているという話も耳にします。お気を付けください。

 


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「愛を喜ぶ」

2023年09月30日 | 聖書のお話

「愛を喜ぶ」ルカによる福音書 15章11~32節

 財産を先渡ししてもらった息子は、それを全部お金に換えて家を出て行き、外国で放蕩の限りを尽くしました。やがてお金はなくなり、食べる物にも窮しました。息子は、故郷にいる父親の元へ帰り、悔い改めて助けを求めました。罪深い者でも悔い改めさえすれば赦す、そんな父親に対する信頼と愛がそうさせたのです。

 父親は、「この息子は、死んでいたのに行き返り、いなくなっていたのに見つかった。」と言いました。悔い改めて信頼することが、人間の生死に例えられています。父親は、「この息子は、死んでいたのに行き返り、いなくなっていたのに見つかった。」と言って、息子の愛を喜んだのでした。悔い改める者を赦す、それが神の愛なのです。

 


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明日の礼拝はお休みします

2023年09月23日 | 礼拝のご案内

 明日、9月24日(日)の主日礼拝は、お休みさせていただきます。

 インフルエンザが流行しています。どうか、ご自愛ください。


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明日は礼拝です

2023年09月16日 | 礼拝のご案内

明日9月17日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「愛を喜ぶ」、賛美歌は「主われを愛す」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 教会の役割は、福音を通して人が社会で生きる力を与えられたり、励まされたりすることではないかと思わされます。また、大袈裟に言えば、社会をより良いものに変革するための力を与えられるということかも知れません。現在、社会を広く見渡したとき、教会がその役割を十分に果たせているかどうか、その答えに窮する思いを感じる今日この頃です。

 音楽も同じように人に生きる力や励ましを与えるものです。福音も音楽も、そのメッセージを受け止めた人が、メッセージに共鳴し共感することによって力や励ましを得て、変革する力をも手に入れることができるのだと思わされています。

 平沢進さんの最近のアルバムで、核P-MODELの回=回というのが出されています。ファンの義務としてCDを買っているのですが、その最後の曲にHUMAN-LAという曲があります。私は、それが頭の中で共感、共鳴するのを感じました。例によって歌詞が分かりづらいので調べると、私なりに一言でまとめると、遺伝子を尊敬して敬いなさいというような内容でした。分かっている人は分かっている、考えている人は考えている、そんな風に受け止めています。

 近年、遺伝子組み換え食品だとか、遺伝子操作薬品とか、生き物が悠久の時を経て守り伝えてきたものが汚され、変質させられているように思います。それは、必ず大きなしっぺ返しになると想像されます。それは、命を命たらしめてきたことへの冒涜になりはしないのでしょうか。誰もが立ち止まって振り返ることが必要ではないかと考えさせられている今日この頃です。

 

 

 


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「自分を二の次に」

2023年09月16日 | 聖書のお話

「自分を二の次に」  ルカによる福音書 14章25~33節

 イエスさんは、従って来る人たちに、父、母、子ども、兄弟、姉妹、自分の命さえも二の次にできないのなら、私の弟子ではありえないと言いました。また、苦難が予想されたとき、自分の十字架を背負って従うことができないなら、私の弟子ではありえないとも言いました。更に、塔を建てようとしたとき、冷静になって完成できるかどうかを考えてから始めないと、途中までしか建てられなくなり、人々から笑われてしまうことになると言いました。

 多くの人たちは、イエスさんの弟子になって人々から尊敬されたいとか、偉くなりたいとか自分勝手に考えていたようです。しかし、イエスさんは「どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、2万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の1万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。」と言いました。

 「和を求める」とは、王自身の命を差し出して交渉するということです。そうでなければ、1万の兵の命を守り、ひいては国民の命を守ることなどできません。戦争とは、甘くないのです。同じように、イエスさんの弟子になろうとする者は、自分を二の次にして、せめて自分の持ち物を一切捨てるくらいの覚悟がなければ、だれ一人としてイエスさんの弟子ではありえないと教えられています。

 


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