時々「安保法制反対は平和ボケ」と言われている人がおられます。民主主義の社会であり、表現や思想や信教の自由を互いに守ろうとしている国ですので、そんな風に言われることもあるでしょう。私も、少し頭に浮かんだことを述べてみたいと思います。
政府与党が「安保法制」を提案しているのですから、それに反対意見も述べず、ただ黙っているだけでも、その法案は数の論理でもって、民主主義の手続きにより通ってしまうことになります。ですから、安保法制に問題を感じ、どこが問題なのかを挙げ、安保法制に反対の意見を述べることは、民主主義の手続きにおいて至極当たり前のことです。また、そのことによって、興味もなく無関心だった人も理解が深まり、ただ黙っているだけではなく、賛成とか反対とか自分の意見を表して、政治に参加するようになったとしたら、民主主義が成熟するという意味で、とても良いことではないかと思います。
で、ここまでは、わざわざ言わなくても良いような当たり前のことだと思いますが、私が釈然としないのは、やはり「平和ボケ」という批判・嘲笑のされ方なのだろうと思ったりしています。批判・嘲笑する相手の立場になって想像すると、たぶん「70年も戦争がなく、平和が当たり前になり過ぎて、頭で何も考えなくなっている。これから中国が攻めてきたり、第3次世界大戦も起こるかもしれないのに、集団的自衛権を行使できるようにしておかないで、どうするんだ。国が守れないじゃないか!」というものではないでしょうか。もし、そう考えているとしたら、すばらしい考え方ではないかと思います。賞を与えるとしたら、「平和ボケ」大賞です。なぜなら、個別的自衛権があることが、抜け落ちているからです。平和な社会にあって思考が停止しているからこそ、戦争に首を突っ込んで平和を得ることができる考えているからです。
残念ですが、そのような理解の仕方は間違っているのではないかと思います。正しくは、現状が平和なら、平和のままで平和を求める政策や外交努力を模索するということだと思います。戦争は、それほど甘いものではありません。大量殺戮、非人道的な行為です。自分の子どもや孫を戦場に行かせて、人を殺させ、殺されて、それで平和を語ろうとしているのなら、すでに人間として死んでいます。すでに死んでいる人ならば、他人を死へと巻き込まないで欲しい!
今の平和という安定した状態を、わざわざ戦争という不安定な状態にもって行って平和を模索しようなどというのは、まったくギャンブルです。70年間も戦争をやっていないアジアの小さな島国が、まるで戦争ビジネスのプロと呼べるほどの大陸の国と一緒にやれるはずがありません。戦争ビジネスのために、いいように利用されるのが関の山だと思います。「アーミテージ・ナイ報告書」というのがあります。(←文字をクリックすると、翻訳された文章を掲載したサイトに移動します。ただし、一部、訳が間違っているとの注釈があります。英文も含めて、ご自分で確認してください。)御覧になってください。
アーミテージ・ナイ報告書について、わかりやすく解説した動画もありました。
【安倍政権】は「第3次アーミテージ・ナイレポート」通りに動いている(大竹まこと)
ちょっとパロディーなのですが、パロディー故に表現できる裏事情など垣間見れる動画もありました。
総統閣下は、「安保法制」審議にお怒りのようです