融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日の礼拝は、お休みします

2025年02月08日 | 礼拝のご案内

 明日2月9日(日)の主日礼拝、お休みします。

 アメリカの政府機関であるUSAIDがイーロン・マスク氏らの政府効率化省の監査により、問題のある機関として整理縮小される方向にあるようです。その過程で明らかになったことは、USAIDが各国の非政府組織に少なからぬ資金を提供し、多国の政権転覆を働きかけていたというものです。その結果、いわゆるカラー革命とされる出来事が「民主化」というフレーズによって起こされ、暴力的に多国の政治に介入していたという問題が露呈しました。現在、ウクライナやロシアを舞台として繰り広げられている戦闘も、その発端は2004年のオレンジ革命を起点として続いている紛争で、突然ロシアがウクライナに侵攻したのではないことは、歴史を知れば誰でも理解できることです。

 それはそうとして、この度USAIDという機関の問題が取り上げられなければ、このような機関が存在していることすら知りませんでした。カラー革命を起こし、暴力的に政権を転覆させるという一連のスキームがあるということを知るうちに、ふと思い出したことがありました。それは、日本共産党の要綱に暴力によって革命を起こすことを肯定するような文章が書いてあるの問題だという議論です。この件について、日本共産党は、要綱は歴史的な遺産として手を付けずに掲げているだけで、実際に暴力で革命するようなことを意図しているのではないと発表しているそうです。日本共産党が暴力で革命を企てることは問題にし、アメリカの政府機関であるUSAIDが手下を使って暴力で革命を企てるのは問題にしないのか・・・。ふと、そんなことを考えさせられた今日この頃です。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「祈りは愛」

2025年02月08日 | 聖書のお話

「祈りは愛」 マタイによる福音書 21章12~17節

 イエスさんは、神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。そして、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」と言いました。イエスさんの周りに目の見えない人や足の不自由な人たちが集まって来ました。イエスさんは、彼らを癒やしました。祭司長たちや律法学者たちは、イエスさんがなさった不思議な業を見、境内で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いて腹を立てました。

 イエスさんの生き方は、その行動によって現れました。同時に、祭司長たちや律法学者たちの生き方も、その行動によって現れました。信仰がその人の生き方を現し、生き方がその人の信仰を現しているのです。信仰を造り上げるのは、「祈り」です。神さまを礼拝する場所は、信仰を造り上げる場所です。それ故に、礼拝する場所は「祈りの家」なのです。イエスさんは、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと教えました。祈りは、愛です。敵でさえ愛する祈りは、人格を造り上げ、信仰を造り上げます。その信仰が、その人の生き方として現れるのです。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は礼拝です

2025年02月01日 | 礼拝のご案内

 明日2月2日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「祈りは愛」、賛美歌は「子の世はみな」、「この世のつとめ」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後は、2月の定例役員会があります。

 誕生の恵みと成長の喜び、そして老いの辛さを経て、人間は世代交代を果たしていくのかと思うと、何だか荘厳な気持ちになります。それが自然の摂理というものですから、自然を冒涜し、自然に逆らおうとするならば、その行く末は総じて察するところがあるというものです。

 「人間は考える葦である」という哲学者に学べば、一人ひとりは葦のように弱いけれど、一人ひとり考え、互いの意見が尊重され、意見をすり合わせる力がありさえすれば、大きな困難も乗り越えて行けるような気がします。問題は、互いの意見を尊重し、意見をすり合わせる能力に欠けているところがありはしないかと考えさせられる今日この頃です。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幸いとは愛」

2025年02月01日 | 聖書のお話

「幸いとは愛」 マタイによる福音書 5章1~12節

 イエスさんは、大勢の群衆に向かって、「心の貧しい人々は、幸いである。」、「悲しむ人々は、幸いである。」、「心の清い人々は、幸いである。」と言いました。貧しさのために心が挫けてしまった人々、苦しいことがあって泣いている人々、困難があっても心を清く保っている人々の日常生活について話されました。

 イエスさんは、心の貧しい人々には「天の国はその人たちのものである。」と言い、悲しむ人々には「その人たちは慰められる。」、心の清い人々には「その人たちは神を見る。」と言いました。置かれている状態はそれぞれに異なっていますが、いずれも「幸いである」と肯定しています。そのことを通して、「幸い」とはその人々が置かれている状態のことではなく、神さまに愛されているかどうかであることを教えています。

 人間を最終的に「幸い」へと導くのは、神さまの愛です。イエスさんは、神さまの愛が全ての人々に注がれていることを教えるために、置かれている状態が異なる人々全てを「幸いである」と言いました。イエスさんはまた、人々に「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」と教えました。人間は、弱い存在ですが、互いに愛し合うなら全ての人々が幸せになれます。幸いとは、愛によってもたらされるのです。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする