明日11月27日(日)は、第一アドヴェント礼拝です。午前9時からの教会学校は、お休みしています。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは、「神は我々と共におられる」、賛美歌は「主を待ち望むアドヴェント」(1番)、「はるのあした」です。先週、捧げることができなかった収穫物を持ち寄り、収穫の喜びを分かち合います。併せて、西宮門戸教会との礼拝交流の一時として、世一さんと共に礼拝を守ります。感染症対策をして礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。
部落差別解放を訴えて、水平社が設立されて100年が過ぎています。ある人が、部落差別は他のあらゆる差別と比べて最も悪質だと言われていたことを思い出します。なぜ最も悪質かというと、民族が違うとか、肌の色が違うというのが一切無いのに差別をするからだということです。なるほど、民族や肌の色が違うとどのように付き合ったら良いか戸惑うことがあるかも知れませんが、相対化して、民族の歴史や人柄について理解が深まるとシンパシーを感じたりもします。しかし、民族も同じ、肌の色も同じ、全てが同じなので相対化もできない、それでも差別をする、なるほど確かに部落差別は最も悪質だと思わされます。
学生時代、差別をなくするようなカリキュラムを設置することに関わったことがありますが、その際、部落差別が無くなれば良いのかというようなことを問われたように思います。その際、いや全ての差別がなくなるようなカリキュラムでないと、部落差別もなくならないでしょうと答えたことを思い出しました。部落差別がなくなるのは、あらゆる差別がなくなって後、最後なのかも知れません。なぜなら、最も悪質だからです。
差別とは、民衆の分断装置だと考えています。この分断装置を民衆が破壊するためには、それこそ心が入れ替わるほどの変革がもたらされないといけないのかも知れません。あるいは、もっと簡単なことなのかも知れません。おそらく、分断装置を破壊するのは簡単なことだろうと思います。けれども、なぜ分断装置がそこにあるのか、誰が分断装置を置いているのかについてまで広げると、それこそ社会の変革が求められるようなことになるのではないかと思うのです。