コロサイの信徒への手紙 3章12~17節
コロサイとは、当時の地中海世界のコリントやローマといったような大都市と比較すると、どちらかといえば山間部の小さい町ではなかったでしょうか。コロサイの信徒への手紙を読むと、コロサイにあった教会の様子について色々と連想させられます。手紙には、コロサイの教会の信徒が、間違った信仰生活を送っている様子について詳しく描かれ、それらを聞いたパウロが感想や意見を述べ、色々と教えられたことが記されています。
特に印象的なのが、「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。」という記述です。このことから、「天使礼拝」というものがあるということ、それとの関わりを持ちながら教会の信徒たちは信仰生活を送っているのではないか、更に、キリストの教会の信徒でありながら、世の宗教の影響を受け、あるいは世の宗教の良いとこ取りをして、時に我流の信仰へと突き進んでたのではないか、そんなことが連想させられたりします。
当時、多くの神々が存在すると考えられていた時代にあって、コロサイの教会に招かれて信徒となった人たちに向かって、パウロは、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」と書き記し、信仰生活の中心が「愛」であることを教えました。
私たちは、イエスさまの愛によって救われ、教会に招かれ、出会い、結び合わされた一人ひとりですから、自分の努力や力で人を愛そうとしたり、教会へと導こうとするのではなく、イエスさまの愛によって救われた者として、その愛に押し出されることが大切ではないかと思わされます。
コロサイとは、当時の地中海世界のコリントやローマといったような大都市と比較すると、どちらかといえば山間部の小さい町ではなかったでしょうか。コロサイの信徒への手紙を読むと、コロサイにあった教会の様子について色々と連想させられます。手紙には、コロサイの教会の信徒が、間違った信仰生活を送っている様子について詳しく描かれ、それらを聞いたパウロが感想や意見を述べ、色々と教えられたことが記されています。
特に印象的なのが、「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。」という記述です。このことから、「天使礼拝」というものがあるということ、それとの関わりを持ちながら教会の信徒たちは信仰生活を送っているのではないか、更に、キリストの教会の信徒でありながら、世の宗教の影響を受け、あるいは世の宗教の良いとこ取りをして、時に我流の信仰へと突き進んでたのではないか、そんなことが連想させられたりします。
当時、多くの神々が存在すると考えられていた時代にあって、コロサイの教会に招かれて信徒となった人たちに向かって、パウロは、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」と書き記し、信仰生活の中心が「愛」であることを教えました。
私たちは、イエスさまの愛によって救われ、教会に招かれ、出会い、結び合わされた一人ひとりですから、自分の努力や力で人を愛そうとしたり、教会へと導こうとするのではなく、イエスさまの愛によって救われた者として、その愛に押し出されることが大切ではないかと思わされます。