融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は召天者記念礼拝です

2015年10月31日 | 日記

 明日、11月1日(日)は、召天者記念礼拝です。午前9時からは教会学校、10時から讃美歌練習、10時15分から礼拝が始まります。メッセージは「変革者となって歩んでいた」、讃美歌は「いつくしみ深い」、「花彩る春を、「神ともにいまして」です。礼拝後は、記念撮影、霊堂前祈祷会、ささやかな愛餐会を行います。遠くより、近くより、浜坂教会で信仰生活を送られた諸先輩方のご遺族も出席されます。共に、礼拝を守ることができることを感謝いたします。礼拝は、どなたにでも開かれています。ご興味のある方は、ご出席ください。

 この時期、浜坂では様々な文化行事が行われています。教会のメンバーも、色々と責任を負っている方もおられます。それぞれにとって、有意義な一日でありますようにとお祈りいたします。天気予報は、幸いなことに、曇り、晴れとのことです。ここ数日、寒い日が続いていますが、明日も最高気温が16度という予報ですので、お日様が出てくれると有り難いです。

 信仰者は、よく「天国に向かって生きる」というようなことを言われます。そうすると、「この世は仮の住まい」という考え方にもなります。往々にして、「この世は仮の住まい」だから、社会や政治のことには無関心でいようとする信仰者もおられるのではないかと思います。けれども、仮であるというなら、仮である社会をしっかりと務めることができない者が、どうして理想の世界である天国で務めることができるだろうか、とも言えます。イエスさまは、世のいと小さくされた人たちと共に泣き笑い、救いの言葉を発言されたように、私たちもまた、イエスさまが教えてくださった愛に基づいて、自分はこう思うというこということを発言することを惜しまないようにしたいと思います。



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この国の所有者 - ジョージ・カーリン

2015年10月30日 | 日記

 耳を傾けるべき言葉ではないかと思います。

 

この国の所有者 - ジョージ・カーリン


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召天者記念礼拝準備

2015年10月30日 | 日記

 11月1日(日)は、召天者記念礼拝です。その日に向けて、霊堂回りの草取りが昨日終わりました。今日は、駐車場の草刈りをしようと思っていましたが、生憎の雨でした。草刈りは、しなくても大丈夫そうですが、見栄えが良くなるかと思って計画していました。それで、明日も色々と行事が入っていますので、駐車場の草刈りはパスしようと思います。

 ともあれ、遠くより近くより来られる方々が守られて、共に礼拝を守ることができるようにと願っています。ちょうど1日は、中学校の文化祭とか、地域で文化行事が行われます。お天気も、曇りのち雨という予報ですので、慌ただしくならないようにと願っています。

 沖縄の辺野古では、また基地建設工事が再会されました。たくさんのお年寄りが座り込みで抵抗しているのを排除して、工事車両が資材を積んで通って行きます。小さな島に、基地があるために、そこに住んでいる人たちが受ける影響は多大なものがあります。どうして、住民の声に耳を傾け、落ちついて話し合うことができないのでしょうか。現場の人たちは、命令で動いています。命令に逆らうことのできる勇敢な人は、そうそういません。悪いのは、上から命令する権力者の衣を着た中身のない人たちと、中身のない人たちを利用して、お金儲けをしようとする人たちです。

 


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県は国の植民地か

2015年10月29日 | 日記

 いやぁ、驚きました。少しは調査、確認のための話し合いが始まるのかと思いきや・・・。県は国の植民地かと思うようなこの対応が許されるなら、どこでも同じ方法で何でもできるということになります。「無理が通れば道理が引っ込む」という言葉がありますが、日本は道理も通らない程度の低い野蛮な国になってしまいました。

 方や、その政党を支持し、ひたすら利権に貪り付くことを了とする人たち、これほどまでに不正と野蛮がまかり通っているど真ん中で、子どもに「道徳」を説く人たち、それが美しい国に住む人たちなのでしょうか。

 聖書には、イエスさまが「人からして欲しいと思うようなことを、人にもしなさい」と教えています。そんなこと、いちいち言われなくても、誰でも人から嫌なことをされたくないと思うものではないでしょうか。それと同じように、自分も人に嫌なことをしないという理屈が分からないような人は、そもそも絶望的に知性も人徳も持ち合わせていない人たちではないかと思います。

(画像をクリックすると、ニュース記事へ移動します。)


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「神の選びが先にあった」

2015年10月28日 | 聖書のお話

「神の選びが先にあった」 使徒言行録 15章1~11節

 物語には、「ユダヤ人の慣習」について記されています。具体的には、「割礼」があげられています。割礼とは、男性が対象とされるものです。もし、キリスト教の信仰に入るために、割礼を受けなければならないというのなら、それは、キリスト教が男性中心のものになってしまうことになります。初期の教会のメンバーには、ユダヤ人が多かったので、当然のことながら割礼を受けている男性が多数を占めていました。そのため、多数の声として、ユダヤ人でない人が教会のメンバーになるためには、割礼を受ける必要があると考えている人がいたことを伝えています。

 初期の教会のリーダー的な存在であったペトロは、ユダヤ人でない人にも割礼を施すべきであるという考えに反対しました。ヤコブもまた同じでした。バルナバとパウロもまた、現場の声としてユダヤ人でない人たちに「ユダヤ人の慣習」を守る義務を負わせることに反対しました。彼らは、自分たちでさえ、完璧に「ユダヤ人の慣習」を守ることができないという自覚と反省の上に、ユダヤ人でない人にまで「ユダヤ人の慣習」を守るように要求することなどできないと考えました。また、彼らは、自分たちが偉いから教会のメンバーになれたというのではなく、神さまが先に選んでくださったから教会のメンバーになれたという考え方を持っていました。人間的な能力が先にあるのではなく、神さまの選びが先にあったという考え方を大切にしていました。だからこそ、誰をも差別することのない神さまが、誰をも分け隔てすることなく教会のメンバーとして選ばれるのだから、そのように受け入れて教会運営をするという決議がなされたということが伝えられているように思います。

 


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