岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

短歌の道しるべ(5)

2012年11月07日 23時59分59秒 | 作歌日誌
短歌道しるべ(5)

 *短歌の「古めかしさ?」(その2)

 旧かな:文語には旧かながあうとよくいわれます。そういった雰囲気はよく分かります。しかし、「ゐ」「ゑ」は違和感を持つ人も多いし、読みにくい場合も少なくありません。(「言ふ」「みづ=水」「表はす=表わす」など)だから、私は、「新かな」「旧かな」を選べるときには「新かな」表記を使うことにしています。また一首のまかや、歌集のなかでは、どちらかに統一しています。(この統一するということは歌壇の一致した考え。「アゐすクりィむ」ではおかしいでしょう?)

 定型:短歌は5・7・5・7・7の5句31音からなる定型詩です。この「型」を「古めかしく窮屈だ」と考える人が多いようです。特に現代詩を書いている人たちのなかには。ところが、その詩人たちの間で、

   「口語自由詩の不自由さ」

という言葉がしばしばかわされます。短歌は「型」があるから自由だというのです。「型にはまっているからこそ自由だ」ということでしょうか?ある詩人の話をまとめるとこうです。

   「口語自由詩には『型』がないから、新しく詩を書くたびに形式を考えなくては   いけない。これが大変なのです。」

ここで意見が分かれます。

◎一方は、「この大変さ=不自由さが、現代詩の面白さなのだ」と口語自由詩を書き続ける人。

◎一方は、「そういう大変さは回避して、言葉そのものだけに集中したい」と現代詩をやめ、短歌を始める人。

どちらが優れているかという話ではないのですが、大変面白いことだと思います。ある人が言いました。

 「わかるような気がしますわ。子どもの『ここからここまでで遊べ』といえば、思いっきり遊ぶやないですか。」




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