・潮のごと騒ぐこころよ火をいれぬ火鉢によりて一時をれば・
「帰潮」所収。1947年(昭和22年)作。
帰宅したばかりの作者は疲労困ぱいしている。あるいは失望感・脱力感に茫然としている。帰宅後火鉢に火を入れることもできずに、おそらく火鉢の上に両の手を置いて時間を過ごしてでもいるのだろうか。
「潮のごと騒ぐこころ」とは、間断なく押し寄せるひとつの思い。おそらく作者にとって喜ばしからざること。これをしばし呆然として作者は噛みしめている。言葉自体は、「潮騒」からの連想かも知れぬ。
このブログで幾度も書いてきたが、「帰潮」の主題は「貧困と悲しみ」である。「都市の自然詠」という独自の境地もひらいた。しかしこの作品は、どちらかと言えば「歩道」の世界に近い。
・日曜の何するとなき部屋にゐて炭はねし時ひどく驚く・ 「歩道」
・つとめ終へ帰りし部屋に火をいれてほこりの焼くるにほひ寂しも・ 「軽風」
との類似性を指摘するのはたやすい。
だが、これらに比べて「帰潮」の一首のほうが、作者の心情が鮮明である。それも「火鉢に火を入れない」という事実だけによって表現されている。明らかに「進展」がみられる。「帰潮」が「純粋短歌の確立期」といわれる所以がここからも分かる。