・夕映のおごそかなりしわが部屋の襖をあけて妻がのぞきぬ・(「帰潮」)
部屋の中にはおごそかに夕日がさしている。そして佐太郎のいる部屋の襖をあけて妻がのぞいた。
おだやかな「生活詠」である。「部屋がおごそか」とはやや大袈裟かとも思ったが、当時の佐太郎の生活状況は大変苦しかったから「つかのまの平安」というところかも知れない。「貧しさのなかのつかのまの平安」。ところが、これをパロディ化した歌人がいる。島田修三である。
佐太郎の作品を「現代の人間から見るとリアリティがない」として、次のように茶化した。
・夕映えの厳粛きはまるわが部屋に入り来て女房が奥歯をせせる・(「晴朗悲歌集」)
「女房」「奥歯をせせる」と意図的に卑近な表現にして「現代の友だち夫婦の姿がリアルに立ちあがって」と島田修三は言う。
だが待てよ。「帰潮」刊行のときの佐太郎の家はそんなに慎ましく穏やかであっただろうか。出版社・養鶏が相次いで失敗して貧しさのどん底にあった。「怒ることなき明暮をねがう」・「怒りのために罪を重ねる」・「火の如き悔」・「弾力のなき顔をふたつ近づけ」物を言う夫婦・・・。「帰潮」のなかの家族像である。しばしば諍いもあっただろう。そんなに穏やかではなかったはずだ。
そのように思って佐太郎のこの作品を読み返すと、「おごそかなりし」「部屋」という表現にはリアリティがあると僕は思う。「おごそかなりし」と過去形で終っているから、「襖をあけ」たあと何かが起ったのかも知れぬ。「友だち夫婦」の「リアリティ」はないにしても、終戦から2年たったばかりの家庭のありさまを、よく捉えているのではないだろうか。ワインか何かのコマーシャルではないのだから、「友だち夫婦」に「リアりティ」があるともおもえない。
「(パロディーは)原作を茶化した感はぬぐえ」ないと言っていいつつ、「実験作」とも言う。しかしパロディは原作を傷つける危険があるし、その作品に普遍性があるかどうかも問われる。ましてこの不況。「実験作」が成功したかどうかは読者が判断するだろうし、もたらされる「結果」については、作者が責任を負うだろう。
黒澤明の「七人の侍」は、世界中でパロディ化された。「荒野の七人」「黄金の七人」「宇宙の七人」・・・。評価がたかいもの、忘れさられるもの様々である。