「角川短歌」5月号の書評欄に僕の第三歌集「剣の滴」が掲載された。
評は外塚喬。「朔日」の代表で木俣修と同誌を創刊した。白秋系だが、斎藤茂吉と北原白秋は、近代短歌の双璧と言われるほどだから、緊張して読んだ。
「茂吉と佐太郎の業績に『新』を積む」と「あとがき」に書いたので、この人選となったと思う。だから僕が目指している「自己凝視」という事を中心に作品が選ばれていた。
読者から頂いた手紙や葉書に取り上げられていたものとは違った作品5首。さっそく自註しよう。
・空遠く流れる雲は夕光(ゆうかげ)に照らされながら凹凸多し・
・反り橋の上に見おろす谷川の水の飛沫が霧となりゆく・
・吹き出ずる伏流水は滝となり風うごくとき虹があらわる・
・草繁る山の斜面の洞窟の石の仏に手の指あらず・
・それぞれに生を背負いて行くすがた路上の影に濃淡のあり・
一首目。ある日の夕方、雲がゆっくり動いていた。凹凸がある。その凹凸に光が当りくきやかに凹凸が現われている。これを「流れる」というかどうかわからぬが、動くさまが「流れる」ように見えた。「雲に凹凸があるという見方は独特」と評されているが、僕はしばしば見ている。
二首目、三首目。日光の景である。日光には谷川や滝が多い。多いので、複数の谷川や滝の記憶が重なっている。だから、特定の谷川や滝ではない。滝の印象には、富士山麓の「白糸の滝」も含まれている。
いわば創作だが、佐太郎の冬の海を詠ったものが複数の記憶に基づいているといわれるように、これも許容されるだろう。「リズム感もよい」と評されたが、計算している訳ではない。「舌上百遍」で言葉を選んだ。いずれも「瞬間の美」を切り取った。
四首目。鎌倉の景だ。鎌倉には「やぐら」という、中世の墓所がある。多くの「やぐら」があるが、そのうちのひとつ。普通は石塔や卒塔婆が並んでいるが、まれに石仏があったりもする。それが何とも「あはれ」で歌に詠んだ。
五首目。昔英語を学んでいるとき、時間調整にハンバーガーショップを利用した。そういうときに二階の窓のガラス越しにそとを見る。路上の影に濃淡があったのは光線の具合だろうが、その濃淡がその人の生を表しているように思った。都市詠である。
「ともに明快な歌である。作者の心奥を見る思い」と評されたが、その言葉、ありがたく頂く。「明快」「リズム」。「印象鮮明」「声調よし」で「内容がある」というのは、佐太郎短歌の基本的要素。そこに心の奥からの叫びを感じてもらえばこれほどの喜びはない。
この5月号は「総力特集:斎藤茂吉」で、篠弘が「深処の生」のことを書いているので、奇しくも、特集とのリンクが出来たようで、これも喜ばしい。