・潮騒を聞きつつ何を偲びしやここなる島に流されてなお・
選者:篠弘(「まひる野」代表)・楠瀬兵五郎(高知アララギ)・水落博(香川県歌人会会長)・島崎榮一(「鮒」主宰)。
崇徳院の歌は小倉百人一首の
・瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ・
で有名。
歴史的背景を確認しておく。平安末期の院政に事実上の終止符を打って、平氏政権が確立したのは、1156年の保元の乱と1159年の平治の乱。文学作品では、吉川英治の「新平家物語」に詳しい。
二つの乱の原因は、当時の支配階級の公家権力の分裂である。それにそれぞれ武士が加担して乱になった。結局は平清盛の一人勝ちとなり、これ以降を「武者の世」と呼ぶのだが、公家の権力が消滅したのではない。なぜかというと武家と公家・朝廷の直接衝突がなかったからである。その結果鎌倉時代を通じて、武家と公家の二重権力の状態が続いた。その二重権力が完全に消滅したのは応仁の乱である。
そういうことを捨象して人間関係に単純化すると、親兄弟の争克である。弟の後白河天皇の側が勝利し、兄の崇徳院は四国讃岐に流された。
僕の作品はその四国を島に見立てたもので、かつての京都の栄華・その後の源平の合戦・平氏の滅亡を崇徳院は偲んだだろうか、という歌意である。
世上の風聞を潮騒に例え、源平の盛衰の具体は一切削ぎ落とした。そこが一首のなかの工夫だった。全てを言い切らなかったのが説明にならずに済んだ原因だろう。
さて話は戻るが、崇徳院は1156年の保元の乱に敗れ、流刑地の四国讃岐で1164年にこの世を去った。1159年の平治の乱による平氏政権の成立を風の噂に聞いただろうが、1185年の平氏滅亡を知ることはなかった。いわば憤死である。
ちなみにNHK大河ドラマ「新平家物語」の配役は、片岡仁左衛門(当時・孝夫:崇徳院)、滝沢修(後白河天皇)・仲代達矢(平清盛)。中学生のころ夢中で見た記憶がある。