「富士山には月見草がよく似合う。」「待てど暮らせど来ぬ人を宵待ち草のやるせなさ。」・・・
散文や詩に植物名が出てくるのはよくある。斎藤茂吉の「赤光」も例外ではない。
試みに思うまま書き出してみよう。桑・柳・蕗の薹・桐の花・青桐・もみじ・萱ぞう・箒ぐさ・蓮・梅・柿・からたち・茗荷・アケビ・翁草・薄・曼珠紗華・・・。これだけの植物名が出るということは、西郷信綱が「斎藤茂吉」でいうように「茂吉は< 農の子 >」であったのだろうか。
ところでその植物名には、それぞれ使う必然性がある。短歌辞典の中で、それらの植物の特性と短歌での用法が挙げられていることを指摘するだけで十分だろう。
たとえば茗荷。あの強烈な香りが経験や感情の激しさとの関連で使われる。しかし、作者本人の思い出と結びついている場合もあるから、そういう時は読者の想像に任される。作者の意図と読者の受け取り方がかけはなれた場合、植物名の詠み込みは失敗であることが多い。言葉が鮮明な印象を結んでいないからである。
ただし、短歌の用語は植物学の用語と違って読者の心のなかに鮮明な印象を結ぶことが目的だから、そういう時はそれ以上踏み込むことは必要ない。
たとえば「青苔」。苔の種類を詮索するのは無用だ。少なくとも余り意味はない。杉苔だろうが、苔ではなく他の地衣類でも構わない。「日陰で湿ったところに生える」というごく常識的な知識で十分だ。
現在まれにしか見かけない植物となれば、話は別である。また古名が使われている場合も調べる価値はあるだろう。しかし、その植物名を調べなければならないということは、その「珍しい植物名によりかかった作品」ということにつながりかねない。
秀歌の場合、見知らぬ植物の名が出てきても、姿形が浮かんだり、作者の心情が伝わってくるものである。月に何回かある歌会(批評会)や短歌講座での僕の実感である。
なお茂吉の作品には「樹海」を詠ったものがある。これについて面白い話が伝わっている。
あるとき数人で樹海を訪れた。
「樹海はいい素材になりますね。」と誰かがいうと茂吉は、
「樹海は歌にならんよ。」と言った。
ところがその直後の雑誌には「樹海」を詠んだ茂吉の作品が並んでいた。短歌の素材は自分の責任で選べ、ということだろう。まあこれは余談。
「月見草」「宵待ち草」がどの種類のものかを詮索するテレビ番組を見たことがあるが、詩や文学の鑑賞にさほど影響はないとおもうが、いかがだろうか。