岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

板挟みになった歌人たち(2):斎藤茂吉と佐藤佐太郎

2010年03月13日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
正岡子規と伊藤左千夫が病気や経済的困難などの問題をかかえつつ創作活動にあたったことを前回書きました。では斎藤茂吉や佐藤佐太郎は・・・。

・斎藤茂吉・・・山形県南村上郡の農家の三男として生まれ、縁戚にあたる齊藤家の養子となる。上京し養父の世話になりながら一高をへて、東京帝国大学医科大学へすすみ精神科医をめざす。精神科医を選んだのは養父齊藤紀一が精神科に転じたため。紀一の娘は茂吉と年齢も離れており、養子ということで「心通い難し」という面があった。このことは後年表面化する。大学卒業後、大学医学部副手(助手)、付属医院嘱託(付属病院勤務)、長崎県立長崎病院精神科部長をへて養父の青山脳病院を継ぐも、ドイツ留学中に病院は全焼。養父の衆議院議員選挙のため貯えがなく、火災保険も掛けられていなかった(本林勝夫「斎藤茂吉)ために病院再建は困難をきわめ、一時神経衰弱を病む。長男斎藤茂太によれば、茂吉は自律神経過敏であったそうだ。岡井隆はこの困難の時代を「医師としての挫折」と呼んでいる。
 また、1909年(明治42年)の徴兵検査は丙種合格。同年には腸チフスで卒業を延期している。(本林勝夫・同書年譜)健康状態はよくなかったようである。

・佐藤佐太郎・・宮城県柴田郡に生まれ、小学校卒業後上京。岩波書店員となり、岩波書店裏の小部屋に住み込む。この間たびたび神経衰弱となり二度の帰郷を経験。ふたたび上京ののち夜間学校に通う(今西幹一著「佐藤佐太郎」)。1945年(昭和20年)、岩波書店を辞め作歌の時間をふやそうと企図するも、生業を持つ必要もあるという一種のジレンマに陥り、出版社を興したり養鶏を傍業とした。しかし出版社は間もなく失敗、養鶏も傍業にすぎず経済状態の困難が続いた。この時期の「貧困と悲しみ」が第五歌集「帰潮」の主題である。44歳で毎日歌壇の選者となるまで生活は安定しなかった。それでいて50代後半にはすでに老いを意識した作品が多くなる。77歳以降は作歌の量も減ってきた。そして78歳での死。決して長生きとは言えない生涯だった。


 写生・写実系の歌人の記述になってしまったが、与謝野晶子・石川啄木・吉井勇・坪野哲久などもそれぞれ「生活と創作」の板挟みに陥っていた。そのなかで短歌の新しい地平を切り拓いてきた。こういった先人の努力には頭が下がる思いがする。





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