1945年(昭和20年)8月6日と8月9日。広島、長崎に相次いで原子爆弾が投下された。当時は「新型爆弾」と呼ばれ新聞でも報道されたが、斎藤茂吉は日記に何も書き残していない。
それどころか8月15日の日記に「玉音放送を、本土決戦を覚悟せよと予想していた」と書き残したほどである。最後まで戦争を戦い抜くつもりだったらしい。
のちに茂吉は次のような作品を残している。(岩波文庫「斎藤茂吉歌集」より)
・「追放」といふこととなりみづからの滅ぶる歌を悲しみなむか・「白き山」
・終戦のち一年を過ぎ世をおそるいきながらへて死をもおそる・「白き山」
・勝ちたりといふ放送に興奮し眠らされりし吾にあらずや・「白き山」
・オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや・「白き山」
戦時中の言動の責任を問われた斎藤茂吉は落胆のどん底に陥る。岡井隆の世代のあいだでは「文学者の戦争責任」も論議されたそうだ。(岡井隆著「私の戦後短歌史」)
ところで原爆を投下した理由について、日米では歴史認識にかなりの違いがある。
「戦争を早く終わらせるためにアメリカは原爆を落とした。」という主張がアメリカでは大勢を占めるとのこと。
この主張が当を得ていないのは、「原爆投下前に日本軍の組織は機能していなくなっていた」「ソ連の参戦で、日本の敗北は決定的になっていた」の二点で明快だ。
日本軍の「組織的抵抗は沖縄戦で終了しあとは時間の問題だった」が歴史学界の定説である。
軍の中央は機能しなくなり戦力は底をついていた。また政府は第三国に和平の仲介を打診していたが、それが他でもないソ連だった。だからソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州に攻め込んで来たときに、日本政府は「打つ手なし」と思考停止に陥ったそうだ。
だから戦争を早期に終結させるどころか、もう「終戦」はそこまで迫っていた。だから、アメリカが原爆を落とす必要はどこにもなかったのである。
では何故原爆が落とされたか。当時は米ソ対立が始まっていた。日本をどちらの国が占領するかで、戦後の政治地図が決まる。そこで原因の第一が浮かびあがる。
「アメリカ主導の日本占領を実現するため」である。だから最後の一撃は、アメリカによるものでなければならない。そこで、原爆投下となったのだ。
そのためにはソ連参戦の前に原獏を投下する必要があった。アメリカが投下を急いだことからもそれは顕らかだ。これが原爆投下の原因の第一である。
そこで第二の原因が生ずる。当時ソ連も原爆を開発中だったから、ソ連に先んじて原爆を使用しなければならない。それもなるべく早く。
そして第三。原爆投下による放射線の影響の資料を集めるためである。だからアメリカは終戦と同時に、 ABCC (原爆傷害調査委員会)のメンバーを送り込んで、大規模な調査をした。福島原子力発電所の「被爆の安全基準」が「暫定基準」と呼ばれるのは、未だに人体への放射線の影響がはっきりしないからだ。だから被爆直後の被害実態、放射線の影響の資料がアメリカには必要だった。
つまりアメリカが原爆を落としたのは、
1・日本占領の主導権を握るため。
2・ソ連が原爆を完成させる前に使用する必要があったため。
3・放射線の人体に関する影響の資料を入手するため。
この三点である。だが、何とも言い難い理由だ。そこで「戦争の早期終結のため」という理由付けが必要になる。これがなければ国際社会からの支持も得られない。
だから今でもアメリカは「戦争の早期終結」を理由にするのだ。スミソニアン博物館に原爆投下に使用された B29 「エラノゲイ」は展示されているが、原爆による被害に関する資料が置かれない理由もここにある。退役軍人会の圧力もあるようだが、自分たちの加わった戦争を肯定する傾向は日米それぞれ共通しているらしい。
ひるがえって見るに、福島第一原発の被爆の影響についてしばしば広島・長崎の原爆による被爆が引き合いに出される。それだけ放射能の人体への影響は未知の部分が多いのだ。(ビキニ事件でもロンゲラップ島の住人は、治療というより健康被害の調査と言った方がいい扱いを受けたようだ。)
なお ABCC (原爆傷害調査委員会)は現在、1975年に改組され、日本が受け継いで放射線影響研究所となっている。広島と長崎にそれぞれあるが、「原発は安全」とさかんに言ってきた。極めて現代的問題だ。
また歴史認識の問題で言えば、中国・韓国(朝鮮)と日本との違いもある。加害国は正当化し、被害国はいつまでも忘れない。このことも心に留めておこうと思う。
先ほどのアメリカ国内での支配的な世論も国連ビルのホールで、数十枚の「原爆写真」(日本被爆者団体連合会作製)が展示されて、少しずつ変わってきたようだ。
被団協の一人はこう言う。
「私たちは誰かを恨んだり、憎しみをもったり、アメリカに復讐したいなどと思いません。憎しみから平和は生まれませんから。」
確か広島の被爆者団体の代表で、NHK の「百年インタビュー」にも出演していた人だった。
・川風の止む時ことに蒸し暑き昼ヒロシマの街を歩みき・(「オリオンの剣」)
*付記:参考文献・井上清著「日本の歴史・下」、遠山茂樹ほか著「昭和史・新版」、藤原彰ほか著「天皇の昭和史」、大江志乃夫著「天皇の軍隊」「日本の参謀本部」、藤原彰著「太平洋戦争史論」、木坂順一郎著「太平洋戦争」、安在育郎監修「第五福龍丸ものがたり」。