・枯れし木がまばらに砂に埋れたつ焼山さむし降る雨と霧・
「群丘」所収。1956年(昭和31年)作。岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」102ページ。
先ず佐太郎の自註から。
「(八幡平の沼を巡った)翌日、焼山を越えたときの作。雨中泥濘の道をのぼりくだりして行くと、霧のなかに赭い(あかい)断崖が見えた。< 霧くらきなかに見えゐる焼山の爆裂のあと朱きしづまり >。私の立っている山上の平も噴火の跡で、枯れて骨のような木が砂礫の中にしろじろとつづいている。下句は荒涼とした感じをとらえ得ているだろう。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
佐太郎の註にあるように、「とらえ得ている」ところが、第一の注目点。「とらえ得る」というのは、眼前のものの「本質的ありよう」に迫るということで、そのありようは、5W1H の「1 H 」(HOW )に当たる。これが捉えられれば情景が浮かぶ。佐太郎門下が最も大事にしたのは、HOW (どのように)だった。
この「本質的ありよう」は、正岡子規の言った「捉えどころ」に当たる。斎藤茂吉が「白桃」のなかで、雑誌の注文に応える必要にかられながら、大量の叙景歌を作り、のちに塚本邦雄に「初心に帰る」と言わしめたのと似ている。この時期の佐太郎は全国各所で叙景歌を詠んでいる。それが、「地表」「群丘」の時期の特徴でもある。
茂吉が私的悩みを抱えていたのと同様、佐太郎も師匠の茂吉の死に会い、「私は何時となし身辺が多忙になって、作品に集注する時間が以前に比べて少なくなった。」と「地表・後記」に書くまでになった。「帰潮」のころの貧困とはちがう「生の苦しみ」(片山新一郎)を味わった時期である。それを溢れるような叙景歌に表現したのは、茂吉と軌を一にする。
第二は初句の「枯れし木」の乾いた感覚と、結句の「降る雨と霧」の湿潤感。象徴詩の「二物衝突」の技法であり、これは塚本邦雄が「茂吉秀歌」の中で「写実派には理解されないであろう」と呼ぶ「象徴詩の技法」である。(僕は必ずしも象徴詩に限った表現方法とは考えないが、そのことについては別の記事に書こうと思う。)
上の句の乾わいた感覚と下の句の湿潤感。岡井隆が佐太郎の作風を評して「象徴的写実歌」と呼んだ所以のひとつでもあろう。しかしこれは能で言う「序・破・急」とも共通する。
第三は三句目の「埋もれ立つ」という表現の見事さだ。特に「埋もれ立つ」という表現は、何の変哲もない表現のようだが、実際に作歌して見るとなかなかに難しい。おそらく作者の造語に近いが、この語によって一首が立ち上がり、叙景歌としての厚みのようなものを出すのに成功した。
こういう表現の工夫の独特さ、発想の多彩さが、「岩波現代短歌辞典」(岡井隆監修)での引用歌が最も多い理由のひとつだろう。岡井隆著「現代短歌入門」のなかの「事実信仰」(=アララギを批判した言葉)とは距離感のある作風・表現技法である。
情景が叙情を表すという「写生」の基礎に、佐太郎が「新」を積んだものと言えよう。