・わが父の低き墓標に手を合わせ心の斧をとぎすましたり
2018年作「星座α」16号
幼児期に祖父母と行った岩田家の墓標。そのころはえらく高かったが今行くと案外低い。ここに祖父母も父も埋葬されている。だがここで言う「低き墓標」とは、そういう物理的なものではない。父も祖父母もやろうとしてできなかったことを僕はこの年でやろうとしている。短歌の創作がそうであり、青葉緑市民連合という市民運動がそうである。
この作品を初めて人の目に触れさせたのは「星座かまくら歌会」だった。ここでは「殺気だっている」「怖い」「もっと柔らかい表現はないか」などと批評された。
しかし創作も市民運動も緊張感をもってやっている。「のめり込んでいる」と時にはそう言われる。だが、かなり「のめり込んでいる」のは事実だ。街頭など野外で歌を歌うようにもなった。「民衆の歌」「憲法への賛歌」「愛の歌」。自作の短歌作品や口語自由詩を音読するようにもなった。
だから、まさしく殺気立っているのだ。こういう緊張感が継続しているのは、もう数年に及んでいる。ふとしたきっかけで、花を愛でる気持ちにもなった。街を歩くとき花屋を探すようになった。かうのはたいてい向日葵。これも進境の変化だ。日々、心が新鮮になっていく。以前は作歌数がやたらと多かったが、この頃は時間を決めて集中して作歌するようにもなった。
緊張感と心の新鮮さ。これはまさしく「心の斧を研いでいる」のに他ならない。
「かまくら歌会」には尾崎主筆は欠席だったが、すべての詠草に「コメント」が付されていた。この作品には「短にして純」とだけあった。これは最高の誉め言葉だ。褒められることは歌会の目的ではないが、尾崎主筆に褒められたのは初めてではないかと思う。
いやNHK歌壇の第一席に入選して以来だろうか。まあ批評の基準が異なるから、初めてと言ってもよいだろう。
寺山修司の作品も意識して作った歌だ。短歌を始めて最初に買った歌集が「寺山修司青春歌集」。寺山へのあこがれもあった。
様々な意味で忘れられない一首となるだろう。