「八重の桜」の時代は幕末、舞台は江戸、京都、大阪、会津、長崎、長州、薩摩。ヒロインの「新島八重」は後に、同志社英学校(同志社大学)の創始者の「新島譲」と結婚する。
ドラマでは、新島譲は出演の機会がほとんどないが、伏線として、アメリカへの密航の場面があった。
さて、ドラマの設定だが、ここに少し問題があるように思う。アトランダムに挙げてみよう。
1、「会津=善」「新政府=非情」という勧善懲悪の図式が出来上がっている。ここに大きな問題があるように思う。
そもそも時代は、近世から近代への転換期だった。もはや封建制は時代に合わなくなっていた。その意味で、幕府、会津、などの佐幕派は「守旧派」だった。つまり幕藩体制が時代にそぐわなくなっていたのだ。幕府の役人は、「萬国公法」(=国際法)も知らずに、不平等条約を締結してしまった。これでは欧米諸国と対等関係には立てない。
言い方を変えれば、幕府を中心とした政治体制では、国の舵取りが出来なかったのだ。
それに対し、西南雄藩、薩摩、長州、土佐、肥前などは、近代のヨーロッパ文明を取り入れて、密航というかたちで、海外へ留学生も送っている。
ドラマのなかで、会津藩の家老と主人公が「何も悪いことをしていない会津」と述べる場面があるが、これは明らかな間違いで、「時代にそぐわなくなった守旧派」「新撰組というテロリストの集団を率いた」ことを無視している。
「会津=善」という図式はそもそもおかしい。これが問題の一つだ。
また、この時期に、幕府の天保の改革が失敗し、数万の農民が餓死する天保の飢饉があり、広範囲に「世直し一揆」があったのを見れば、幕府の失政は明らかだった。
2、それでは、新政府「薩摩、長州」はどうか。これも「非情」の一語では表現できない。
いち早く近代化を目指したという意味では開明派だが、出来上がった政府は「有司専制」とよばれる「薩・長、土、肥」による独裁政治だった。性格は複雑なのだ。
長州藩士などは、京都の焼き討ちを計画したが、現在のように、普通選挙法による選挙で、政権交代などは望むべくもなかった。長州藩士にすれば、安政の大獄で、吉田松陰が処刑されたのは、理不尽なことだったろう。安政の大獄は、保守反動の極みであったと言っていい。
3、徳川慶喜の描き方。
小泉光太郎が演じているせいか、慶喜の裏の面が描かれていない。慶喜は幕府のなかでは「開明派」だが、幕府の支配体制を維持しようとした意味では、「守旧派」だ。しかも「鳥羽伏見の戦い」のあと、多くの幕臣を置き去りにして、江戸へ引き返している。「薩摩、長州」との、交渉もなしにだ。これは保身であり、結果、会津が、「新政府軍」の正面にたつことになる。こういった、したたかで、ずるがしこい面があるのだが、それが描かれていない。
この時代が「大河ドラマ」のテーマになったのは、何度かある。「獅子の時代」「篤姫」「新撰組!」「龍馬伝」などだ。この四つのドラマは、勧善懲悪ではなく、少なくとも「人間は描け」ていた。
黒沢明の映画のヒュウマニズムは「人間を描いているからだ」と述べたのは、映画評論家の淀川長治だが、「八重の桜」は、人間が描かれていない。
つまり、このドラマは、単なる「エンターテイメント」なのだ。このドラマは視聴率が高い。それだけに、このドラマでこの時代の「時代像」が広く定着するのを僕はおそれる。
また、戦闘シーンが多いのも気になる。鉄砲の戦いは現代の戦争に直結する。参議院選挙で「憲法問題」が焦点の一つとなるこの時期に、「世論誘導」の匂いがしない訳でもない。
現代の問題と切り離して、純粋に「エンターテイメント」として、視聴者が受けとめればいいのだが。