岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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2022年8月15日に考えたこと(戦争と平和について)

2022年08月15日 01時27分20秒 | 歴史論・資料
 今年ほど、戦争についてかんがえさせられた年はない。2月にウクライナ戦争が始まり、戦争の加害と被害をかんがえさせられた。横浜の「戦争の加害」パネル展もきっかけの一つだった。

 第一に、広島・長崎の原爆の被害。ぼくも現地に数回言ったから、その悲惨さは言うべくもない。だが、広島も長崎も「軍都」であり、軍需j産業で栄えた街であり、朝鮮人や中国人の強制労働も行われていた。核兵器は廃絶すべきだし、核兵器禁止条約を日本は批准すべきだし、更なる被爆者援護も必要だ。

 だが「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」という場合、広島や長崎の戦時暴力や戦争責任も含めて、朝鮮半島や中国の人々の全面的な共感を得られると思うのだ。これは大日本帝国の起こした戦争全体の戦争責任の問題でもある。

 そして第二に、8・15をどう呼ぶかの問題。「敗戦の日」「終戦の日」と普通は呼ばれるが、「敗戦の日」では「敗れた仕返しをする」というニュアンスを感じる。「終戦の日」では「自然と戦争が終わった」というニュアンスが漂う。「戦争終結の日」は正式には「降伏文書に署名した9月」だ。
 「昭和天皇の玉音放送があった日」では、天皇への崇拝のニュアンスが漂う。数年間考えてきたが、「戦争終結をラジオ放送で公表した日」と呼ぶのがいまのところ妥当だと思うようになった。「大日本帝国が敗北を認めた日」「大日本帝国が瓦解した日」の方がよいかも知れない。

 これを「理屈」と言うなかれ。「太平洋戦争」「アジア太平洋戦争」「15年戦争」などと呼ぶにはそれぞれ意味がある。日本とこの国の人々が戦争をどうとらえるかの問題だ。「先の大戦」という曖昧な言葉が使われるのも、その辺にネックがあると思う。

 千鳥ヶ淵の戦没者墓苑の石碑には「日本人の戦死者の人数がしるされ、アジアの人々の死者の数はしるされていない。広島の平和公園の石碑には「あやまちは二度とくりかえしません」としるされていて、「誰のどういう過ちか」がぼかされている。公園の命名にも、かなり議論があった。

 つまりは、戦争の被害と加害をどう考えるかだ。




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