・女一人罪にしづみてゆく経路その断片を折々聞けり・
「帰潮」。1947年(昭和22年)作。
どんな罪か、どういう事情か一切が捨象されている。これは一つの特徴だが、今の僕にはどうしても秀歌とは思えない。捨象単純化し過ぎて何のことやら分からない。
佐太郎が第二義的として、何を捨象・限定・単純化したかったのかが、これで分かる。5W1Hのうち、WHY(なぜ)が徹底的に省略されているのだ。何の暗示もない。ヒントすらない。
斎藤茂吉の「阿部定」の歌とは違いが鮮明だ。自註はないが、青田伸夫著「『帰潮』全注」には次の様にある。
「どのような素姓の、どのような境遇の女であるか一切わからない。ただ『罪にしづみてゆく』哀れな女が一人ここにいるだけである。歌意から判断すると、一気に沈んでいくのではなく、或る期間を置いて徐々に罪に落ちてゆくのが観察されるというのであり、運命論的で女の本性とか業のようなものさえ感じられる。作者はその女の行き方に何ら主観をさしはさむことをしない。『ゆく経路・その断片・を・折々・聞けり』と漢語をまじえたリズミカルな調子をもって、ただ事実の重みを提示するのみである。それでいて読後これほど考えさせる歌も少ないだろう。」
誉め過ぎだ。由谷一郎「佐藤佐太郎の秀歌」にも、今西幹一・長沢一作「佐藤佐太郎」にも、佐藤志満「佐藤佐太郎百首」にも、秋葉四郎「鑑賞・現代短歌4佐藤佐太郎」にもとりあげられていない。
ただ佐太郎が目指した方向はこれでわかる。それほど省略、限定、単純化は難しいということだろう。