1945年(昭和20年)8月15日。この日を「終戦」と呼ぶか、「敗戦」と呼ぶか。話題になったことがある。「戦争に負けた」のが相当の衝激を受け落胆した人は「敗戦」と呼ぶ。戦争にかげながら賛成しかねていた人、もともと反対していた人は「終戦」と呼ぶ。歴史用語は「終戦」だ。
この日を境に社会は大きな転換期を迎える。「戦後民主化」と歴史用語で呼ばれるが、短歌界も例外ではなく、転換期となった。短歌が「民族詩」として戦意高揚に重要な役割をしたからだ。
多かれ少なかれ著名な歌人は、戦争に協力していたから、その弟子筋の歌人達は「戦争は間違っていた」とは言えなかった。このことは品田悦一著「斎藤茂吉」に詳しいが、ここでは斎藤瀏(「短歌人」創刊者)ほかふたりの歌人が「公職追放」になったことだけを述べておく。とにかく、あの時代はそういう時代だったと感嘆には片付けられない。
短歌や歌人が戦争に協力したのは重い事実で、終戦後、社会で起こることをリアルに表現するリアリズムが歌壇の大きな潮流となるのは単なる偶然、時代の風潮というものではなかった。戦争・終戦という現実にリアルに向き合おうとした必然的結果である。ここでは、近藤芳美、宮柊二、窪田章一郎の作品をとりあげる。作者のプロフィールと作品とは岡井隆編集「集成・昭和の短歌」によった。(いずれも斎藤茂吉以降の社会や歌壇の傾向である。)
1・近藤芳美:土屋文明に師事。「埃吹く街」は荒廃した戦後風俗を凝視し、歴史と対峙する知識人の苦悩を見据え、昭和短歌の典型。(=戦後派の典型の意味に僕はとっている。)
・世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ・「埃吹く街」
・夕ぐれは焼けたる階に人ありて硝子の屑を捨て落とすかな・「同」
・川風に防空頭巾かぶりつつ仕事分けられて居る労働者・「同」
・つつましき保身をいつか性(さが)として永き平和の民となるべし・「同」
・戦争は又あらざらむ片言にまつはりて行く幼きものよ・「同」
2・宮柊二:北原白秋に師事、「山西省」は中国を転戦した記録詠で、戦闘下における人間愛の表現が結晶。生涯戦争の傷痕を負った孤独派。
・重大の近きを知りぬ土踏みて分隊に帰るわれらが跫(あし)音・「山西省」
・ころぶして銃抱へたるわが影の黄河の岸の一人の兵の影・「同」
・自爆せし敵のむくろの若かるを哀れみつつは振り返り見ず・「同」
・装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり・「同」
・帯剣の手入をなしつ血の曇おちねど告ぐべきことにもあらず・「同」
3・窪田章一郎:父窪田空穂に師事。「まひる野」創刊。「ちまたの響」はシベリアで抑留死した弟の挽歌をはじめ、温和な人間味に富んだ抒情。
・防空壕盛土のしたに忘れゐし庭石ありて掘るにあらはる・「ちまたの響」
・雑司ヶ谷疎開畑を跨ぎたる虹は焼野のいづくより立つ・「同」
・東京の焼野を跨ぐ大虹の立ちたる脚のまさやかに見ゆ・「同」
・病みたれば騎馬訓練を受けずして苦しかりけむ野砲兵汝(な)は・「同」
・一等兵窪田茂二郎いづこなりや戦(いくさ)敗れて行方知らずも・「同」
戦争がそれぞれ深い刻印を押している。だがこれに満足できない集団がいた。「前衛短歌」の塚本邦雄、岡井隆、寺山修司らである。その前衛短歌は、1970年まで続く。(篠弘は1967年には終わっているとする。)