岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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斎藤茂吉49歳:試験に苦しむ夢をみる

2011年01月12日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・試験にて苦しむさまをありありと年老いて夢に見るは悲しも・

 「石泉」所収。1931年(昭和6年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」152ページ。

 先ず茂吉の自註。

「五十歳になって、少年のころと全く同じ試験の夢を視るところである。」(「作歌40年」)

「(27首列挙のあと)昭和6年には右のやうな歌がある。おほむね平凡な歌であって、句の上などに奇抜な工夫などが無いやうであるが、写生の比較的真面目に出来てゐるものも交つてゐるやうである。」(「石泉・後記」)

 新しい工夫はないが、「真面目な写生」という自己評価。茂吉自身としては、自信作とはいかなかったようである。

 さて、佐藤佐太郎・長沢一作・塚本邦雄の評価はどうか。佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」・長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」・塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉」のどれにもとりあげられていない。

 おそらく「平凡」という茂吉自身の評価と軌を一にしているのだろう。

 その平凡さはどこから来るのか。「試験」と言う語が具体的過ぎると僕は思う。「少年期の記憶」「若き日の記憶」などとすれば、一般化・単純化・限定・余剰の捨象が出来ているが、具体が目立ち過ぎているのである。

 古くは正岡子規が試験に落第して大学を退学している。僕も時々、試験や授業で冷や汗をかく夢を見る。時には中学であり、高校であり、大学だったりする。

 何十年たっても夢に出るのだが、5句31音の定型詩にあっては情報の伝達になってしまう。斎藤茂吉にもこういう平凡な作品があるということか。僕の所属する「星座」誌上に「文豪の凡作」という連載があったが、斎藤茂吉も例外ではないというところだろう。斎藤茂吉も人の子と言うことか。それでも標準以上の出来とは言えまいか。






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