岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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和歌から短歌へ:正岡子規から斎藤茂吉の時代

2011年01月11日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
もともと短歌は和歌のなかの一つの形態だった。和歌のなかには長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌があり、それぞれ5音と7音を基本とする詩形だった。古今和歌集以降、短歌だけで勅撰集や私歌集が編まれるようになり、和歌=短歌形式が一般化した。

 それ以来近世まで短歌は和歌または歌と呼ばれ、詩と言えば漢詩のことを指していた。短歌はまた「やまとうた」とも呼ばれた。

 明治維新後「和歌の革新」の試みが取り組まれ、数々の結社が結成された。まるで政治結社のようだが、「古今和歌集を聖典」とする旧派和歌が相手だったので、こうなったのだろう。

 与謝野鉄幹は東京新詩社を結成し、機関誌「明星」を創刊した。佐佐木信綱は竹柏会を結成し、機関誌「心の華」を創刊した。これらは新派和歌と呼ばれたが、和歌にかわる呼称も模索された。東京新詩社は「短詩」と呼んだが、正岡子規は「短歌」と呼んだ。「歌よみに与ふる書」に短歌という用語は使われていないが、結成されたグループは「根岸短歌会」であった。

 短歌の呼称を和歌にかわるものとしたのが誰かという詮索は余り意味がない。それよりむしろ、なぜ和歌にかわる呼称が求められたかである。

「連俳は文学にあらず。」というのは正岡子規の言葉。

 この場合の連俳は「俳諧の連歌」を指す。中世末期に成立した「連歌」は「堂上の連歌」といわれ、公家のあいだでの教養・知的あそびとして発達した。「俳諧の連歌」は近世の町人の間に広まった。形式は同じである。複数の人が、「5・7・5」と「7・7」を交互に詠んでゆく。最初の「5・7・5」を発句といい、最後の「7・7」を挙句という。「挙句のはて」という慣用句はこれに由来するが、芭蕉が門人に対して「みな上手くなったが、発句ができるのは私だけだ。」と言ったのは有名。その通り、発句だけを「俳句」という独立した文芸として確立したのは芭蕉である。

 先ほどの正岡子規の言葉「連俳は文学にあらず」というのは、一人の作家が個人の責任で創作するものではないからである。

 新派和歌と呼ばれた人々は、5・7・5・7・7の詩形を文学として確立することを目指した。近代文学としてのそれである。遊びの要素を全く斥けた訳ではないが、主題があり「自己」を表現するものとしての「短歌」を目指したのだろう。(短歌では「自己」と言わずに「われ」と言う。)特定の宗教や儀式からの独立もはかられた。近代文学とは洋の東西を問わず、そういうものであろう。斎藤茂吉「赤光」の自己凝視のさまには驚かされる。これを「近代的自我」と呼ぼうか。

 短歌と和歌の違い。これは近代と前近代の違い、主題のある文学と「ことばあそび」のちがい、宗教や儀式からの独立と付属物の違いと規定できるのではあるまいか。






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