・われひとり来てひそみゐる伊豆山は潮(うしお)の音の間遠に聞こゆ・
「石泉」所収。1931年(昭和6年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」P154
この一首に関して茂吉の自註はない。それどころか「おおむね平凡なさく」という「石泉・後記」の一連のなかにもない。
佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」、塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉まで・百首」でもとりあげられていない。
しかし僕は斎藤茂吉の作品の特徴のひとつをよくあらわしていると思う。それは遠近感・立体感である。「間遠」の一語がよく効いている。「ひそみ」「潮・うしお」「伊豆山」の語が独特の雰囲気を醸し出している。
「短歌は純粋な形に於ては、現実を空間的には< 断片 >として限定し、< 瞬間 >として限定する形式である。」とは佐太郎の言葉だが、佐太郎の作品には、「瞬間」「断片」という言葉であらわすのにふさわしいものが多い。
いわば「一瞬の時間をとらえる名手」といえるが、それに対して茂吉は「立体感・距離感をだす名手」といえる。「斎藤茂吉の短歌を読む」のカテゴリーの初めの方の記事を参照して頂きたい。
僕はこれを一般化して「茂吉は距離感を出す名手、佐太郎は時間を捉える名手」とよんで渡辺順三に師事した歌人に話したときに、その表情がはっと変わったのを見たことがある。もうひと昔前になるが、「写生」=「事実を書く」と捉えていた方には驚きだったに違いない。
その点、冒頭の一首は「距離感・遠近感」を見事にとらえている。それほど「間遠」という語が絶妙なのである。もしかしたら茂吉自身も気づいていなかったのかも知れない。
なお伊豆山には「伊豆山権現」があり、山岳宗教との関係が深い。山岳信仰と斎藤茂吉の作品の関係ついては、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」187ページから211ページに詳しいが、引用歌のほとんどに「遠近感」が感じられる。