・塩しみてかたき砂浜かなしみのこころの如く秋の日に照る・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」P119
佐太郎の自註。
「< 塩しみてかたき砂浜 >が捉えたところで、砂浜は普通はやわらかだが、波をかぶると堅くなる。それは塩分のためと私は理解した。」(「作歌の足跡ー海雲・自註-」
言われてみるとなるほどそうである。理屈から言えば「塩分が多いから砂がかたまる」のではなく「海水が浸みていく過程で砂の粒子の隙間が狭くなる」のだ。
しかし短歌は詩であり、学術論文やレポートとは違う。作者がそう感じたのであり、独自の捉え方をしたのである。
「理屈に合わない。」
というのは当たらない。とすれば「塩しみてかたき砂浜」とは客観的な「もの」を詠んでいる様に見えながら、作者の主観を詠んでいることになる。「客観・主観の一体化」である。
そして3・4句目。「かなしみのこころの如く」という比喩。これは「秋の日に照る堅い砂浜」にかかるのだが、これによって「かたき砂浜」が愁いを帯びてくる。つまり比喩が効いているのだ。
一首全体を見渡すと叙景歌でありながら情感が漂う。砂浜を詠んでいるのだが、読者に伝わってくるものは、「悲しみ」「孤独」「憂い」などの情感である。線がやや細いが、それは佐太郎の資質によるものだろう。伊藤左千夫とは余程違う。
斎藤茂吉から
「左千夫を読め。」
と言われた佐太郎だが、左千夫とも茂吉とも違う境地に到達しているのである。そして改めて思うのは岡井隆の次の言葉だ。
「きっちり詠まれた叙景歌は、それだけで立派な抒情詩です。」