『短歌』8月号 書評:岩田亨歌集『聲の力』
書評の冒頭に「『聲の力』に収録された400首から岩田さんの肉声を感じ取ることができるのか。」という一文がある。感じてもらえれば幸いだと思い読み進めていった。
「情緒的な作品が目立つ中で、社会詠を興味深く読んだ」、とあり「ハチ公前広場(ISによる人質殺害事件追悼集会)」や「議事堂周辺」を興味深く読んだと書かれ次の作品が紹介されていた。
・群衆の声々響くビル街の列を離れてにぎり飯食う
・ゼッケンの紐結びつつ永田町一番出口を急ぎ出でたり
「デモに参加」(実際には議員会館前の座り込み)の一連だが「岩田さんの『生』の瞬間が切り取られている。」と評された。これは社会詠で僕が心がけている点で、当事者としての経験を如何に切実に表現するかが社会詠の要点だと考えている。
(僕は政治活動家ではないので社会詠、政治詠は数多くは出来ない。)
この「議事堂前」と「ハチ公広場」は「詩客」でも注目された。プロレタリア短歌の系譜を引く歌人の葉書でも評価されていた。しかし他の歌人からの葉書、手紙にはほとんど触れられていない。東京新聞が「2015年安保」と呼んだ社会の動きを遠くから見ているのだろうか。
次に他者への視線が辛辣なもの。
・自分こそ硬派であると言う人の書きたる文章読むに悲しも
これは俳句から見れば感情に流れている、と評された。その通りだ。感情に「流されている」とは思わない。俳句と短歌の違いに「短歌は情を表現できる」という特長がある。主情的なのは斉藤茂吉や佐藤佐太郎の作品の特長だった。これはお褒めの言葉と考えておきたい。
・幾年も埃かむれる自画像を見る思いして相手と話す
これは「岩田さんが他者を辛辣に詠むのは、他者に自己を投影しているからなのいだろう。」と評された。僕は自分を棚に上げた作品は詠まない。他者の生き方を考える場合、必ず自分の考え方と重ねて考える。
批評は次の一文で締めくくられる。
「埃をかむった自画像から岩田さんの肉声が痛ましく響いてくる。宙に放った声が、岩田さんの全身に、針となって降り注いでいる。」
素材を自分に引きつけ、切実に詠む。これが柴田千晶という読者に伝わったのが何よりもうれしい。
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