僕の執筆した「寺山修司試論」は寺山修司の作品に党派性があるという趣旨だった。かなり前から疑問に思っていたのだが「寺山修司は言葉のやり繰りが上手い」「私性を拡大した」「虚構の導入に道を開いた」と評価されていた。
しかし何らかの政治思想を持ち、社会に異議申し立てをする人は、寺山修司の作品を愛唱歌にしている。
・マッチ擦るそのつかのまに霧深しわがみを捨つる祖国はありや
などがその代表例だ。だから寺山修司が政治思想を持っていないはずがない。その政治性、党派性の内容を吟味したのが「寺山修司試論」だった。
僕の評論に一票いれてくれたのは篠弘だった。篠は現代歌人協会の前理事長、日本詩歌文学館の館長、文学博士だ。その篠が
「寺山論の形をとっていますけれど、トータルに背景の戦後短歌の歴史にも触れているし、また、オリジナルな視点で寺山の政治との格闘ですね、その間接的な反映と言ってもいいかも知れませんが、そこを書いた文章としては、このスペースでは十分に言い切っているのではないかと。」
こう言っている。僕としては嬉しい賛辞だ。
この選考会では選考委員から次のような発言があった。
「革命、思想、党員、それからトロツキー、こういう言葉から党派性を導き出しているのも表装的、便宜的すぎるのではないか。・・・つじつま合わせが過ぎるのではないか。」
しかし寺山修司の手法は、象徴詩、モダニズムのそれであり、言葉の意味そのものより、言葉が連想させるものを、最大限利用したものだ。寺山の作品から党派性を感じられるものだけを抜き出したので、つじつまが見事に合ってしまったのだ。意味にこだわると寺山の作品は読めない。
「この『政治的党派性』というのには違和感を持ちました。寺山は党派性とは関係ないところで作っていたんではないかという感じがするので。」
「『党派性』という言葉自体が造語だよね。」
これは違う。「党派性」は造語ではない。「ある政治的傾向を強くもった思想内容の質」が党派性だ。思想を持たない人間はいない。濃淡はある。人生観も思想の一つだ。
いわゆる「無党派」も「無党派」という政治的傾向、党派性をもっている。特定のセクトに属するのが党派性ではない。政治のある一定の考えをもっていれば、それが党派性なのだ。
選考座談会での評判はあまりよくなかったが、立論の基本線は間違っていないと思う。ひとつ考えさせられたのは「党派性」という用語の概念規定を入れるべきだったかもしれないということ。方法論も明確に論ずべきだった。
評論のテーマがあと4つある。これは全てが関連しているのだが、これを次にまとめてみようと思っている。