『短歌現代』7月号、8月号 「特集・結社の力」
このブログは、フェイスブックと連動しており、詩人の読者も少なくないので、始めに少し説明を。現代詩では発表の場として同人誌がある。短歌、俳句の場合は「結社誌」と言う。なぜ結社なのか、これは僕の意見だが、近代短歌の『明星』、『アララギ』も結社誌として出発した。発行元は「新詩社」「根岸短歌会」だが、旧派和歌の革新を目指していたので、まるで政治結社のように、結社と呼ばれるようになったと思う。浪漫主義、写実主義と、文芸主張は異なっているが、「打倒旧派和歌」では一致していた。
その結社の役割と性格について『短歌現代』の7月号、、8月号で特集が組まれた。
総計14人の歌人が機構しているが、共通しているものがある。それは結社誌には、作品の継続的発表の場、短歌仲間の交流の場、地域ごとに行われる歌会は自分の作品を人の目で見る研鑽の場、だと言うことだ。
なかでも、篠弘、高野公彦、大辻隆弘の論考に注目した。
篠弘の論考は、総論的なもので、結社の起源、結社の役割、結社の問題点、結社への提言が書かれている。
高野公彦は、結社の大きな二つの役割、「道場としての結社」「サロンとしての結社」が論じられる。結社は、作品の研鑽の場であり、初心者の教育の場であり、会員の交流の場でもある。
大辻隆弘は、結社の運動体としての活力を保持するための、組織論に言及している。
僕の経験則で言えば、結社に属することによって、継続的発表の場を得た。そして先輩歌人から、多くのことを学んだ。歌会では他の人の作品を目にして、その着眼点や、表現方法に驚かされた。そして自分の作品を客観的に見る機会となった。
まさに発表の場であり、学びの場であり、研鑽の場だった。
だが結社には欠点もある。主宰者を中心とした「イエ構造」。これは時に、師風追随、年功序列、閉鎖性と言うこと。そこで大辻の言う、組織論が必要なのだ。
篠弘が、最後に提言している。「結社に変わる言葉はないか。」
僕は「同人雑誌」という呼称が相応しいのではないかと思う。歌会も「作品批評研究会」としてはどうか。結社の主宰も「代表」が相応しいだろうし、運営も運営委員会制がいいだろう。
そして「同人雑誌」の目的は、新人の育成、教育機関、作品発表の場、研鑽の場と明確に意識してはどうだろう。
昔は、結社に入会するのが、作歌活動の基本だったが、最近では、若い人を中心に「無所属」の人も増えている。「魅力のある作品があり、魅力のある結社」なら、人は集まるだろう、という発言が印象的だった。
昭和の詩壇を支えてきた旗幟を鮮明にした同人誌、のような役割を「結社」は持っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/bb/0ff6d21eed982ac08a28c73fc1e7037b.png)