このブログの記事にも書いたように石川啄木の短歌には愛唱性がある。それとともに鋭い時代認識がある。啄木の年譜をみればわかるように、時代を見つめ、時代状況に悩み、時代の様相(地方と都市との乖離)の真っただ中にいた歌人である。そこで「地方と中央」「<上京>がつなぐ近代と現代」という視点で書かれた論考に注目したのである。
:「時代は変わったのか」-外部者啄木の視点ー:嵯峨直樹
「自然主義はあくまで遠い中央の限られた若者の間で起こった事であり、地方にいてはその歴史に参加できず、さぞ歯がゆかっただろうと思う。歴史は遠い遠い中央で編まれる。雑誌などを見ると時代はどんどん進んでいるようだが、自分のいる地元の風景は遅々として変わらない。時代が進んでいるというのは虚構ではないだろうかという思いは地方に住んでいる人間なら感じた事はあるのではないか。」
(=啄木の年譜を見ると尋常小学校卒業が1895年、盛岡中学校入学が1894年、結婚したのが1905年。日清戦争・日露戦争・第一次大戦の時期に符合する。これらが十代の多感な時期だったのは注目してよかろう。この時期は「第一次産業革命」「第二次産業革命」「電化」の時期にあたる。資本主義の勃興期であり、「悲しき移住者」が都市と都市近郊に大量に流入した時期でもある。啄木自身も1902年を手始めに合わせて4回上京している。)
「もし村の『絆』に完全に入っていたらそこで満たされ、彼は東京に出る気も起こさなかっただろう。満たされないから東京で『勝負』する必要に駆られる。啄木の『勝負』っぷりは、ふてぶてしく且つ鋭利だ。」「啄木は居場所がなかった為に外部者の視点を獲得し得たのである。」
(=逆に写生は正岡子規の例を挙げるまでもなく、地方から始まったといわれる。都市の情景を表現したり、都市詠の開拓は大正デモクラシーの時期を経たのちのことである。石川啄木は1912年、明治の末年、つまり大正元年に亡くなっている。この後で山田航の言うとおり石川啄木は「明治の青年」であったのだ。)
:「啄木が死なない理由」ー<上京>がつなぐ近代と現代ー:山田航
「<地元ー東京>の板挟みにあって苦悩したのは明治の青年石川一(はじめ)ばかりではない。現代の青年だって同じように、第三極を求めに旅立つ行動を起こすことがある。その第三極が沖縄だったりインドだったり、場合によっては具体的な土地ではなくサブカルチャーや思想やビジネスだったりする。・・・<上京>というシステムは、現代もなおしぶとく生き残り続けている。<上京>に失敗した者は、じゃあ別の新しい街を目指そうという考えにはならない。なったとしてもその道は<上京>より険しい。」
「結局のところ啄木は、本人はエリートの道を挫折したにもかかわらず、いや挫折したからこそ、近代的エリート養成と不可分だった<上京>システムの限界をその作品のなかに露呈させえたのではないかと思う。ある程度の教育を受けたばかりに、進むべき道を閉ざされた瞬間に目的地を見失い、社会的に宙ぶらりんになっていく。その結果として、進歩を捨て去った一介の『村民』となる覚悟も持てず、エリートの夢を諦めきれない中途半端なインテリゲンチャと化す。啄木はその典型だった。」
(=細部にわたれば、用語や概念規定に異論がない訳ではないが、嵯峨の論考同様「時代に視点を当て」「地方からの上京というファクターに注目し」「現代の目から啄木を論じ」ているのが好ましく思えた。ここにゲーム感覚は皆無であるからだ。いい加減な感想文ではない。)
そのほか、「短歌時評」の「茂吉の力」にも注目した。「近代短歌に学ぶ」という姿勢が、全体のものになってきたように思う。
*僕の第一歌集「夜の林檎」は品切れ。
第二歌集「オリオンの剣」は、アマゾンに出品中。
第三歌集「剣の滴」(かまくら春秋社)は、楽天ブックス、
live door books、のほか、全国の書店で注文出来ます。*
付記:画面右側の「カテゴリー」をクリックして関連記事を参照してください。
画面左側の「フェイスブック」をクリックすれば、画面が切り替わります。
:「時代は変わったのか」-外部者啄木の視点ー:嵯峨直樹
「自然主義はあくまで遠い中央の限られた若者の間で起こった事であり、地方にいてはその歴史に参加できず、さぞ歯がゆかっただろうと思う。歴史は遠い遠い中央で編まれる。雑誌などを見ると時代はどんどん進んでいるようだが、自分のいる地元の風景は遅々として変わらない。時代が進んでいるというのは虚構ではないだろうかという思いは地方に住んでいる人間なら感じた事はあるのではないか。」
(=啄木の年譜を見ると尋常小学校卒業が1895年、盛岡中学校入学が1894年、結婚したのが1905年。日清戦争・日露戦争・第一次大戦の時期に符合する。これらが十代の多感な時期だったのは注目してよかろう。この時期は「第一次産業革命」「第二次産業革命」「電化」の時期にあたる。資本主義の勃興期であり、「悲しき移住者」が都市と都市近郊に大量に流入した時期でもある。啄木自身も1902年を手始めに合わせて4回上京している。)
「もし村の『絆』に完全に入っていたらそこで満たされ、彼は東京に出る気も起こさなかっただろう。満たされないから東京で『勝負』する必要に駆られる。啄木の『勝負』っぷりは、ふてぶてしく且つ鋭利だ。」「啄木は居場所がなかった為に外部者の視点を獲得し得たのである。」
(=逆に写生は正岡子規の例を挙げるまでもなく、地方から始まったといわれる。都市の情景を表現したり、都市詠の開拓は大正デモクラシーの時期を経たのちのことである。石川啄木は1912年、明治の末年、つまり大正元年に亡くなっている。この後で山田航の言うとおり石川啄木は「明治の青年」であったのだ。)
:「啄木が死なない理由」ー<上京>がつなぐ近代と現代ー:山田航
「<地元ー東京>の板挟みにあって苦悩したのは明治の青年石川一(はじめ)ばかりではない。現代の青年だって同じように、第三極を求めに旅立つ行動を起こすことがある。その第三極が沖縄だったりインドだったり、場合によっては具体的な土地ではなくサブカルチャーや思想やビジネスだったりする。・・・<上京>というシステムは、現代もなおしぶとく生き残り続けている。<上京>に失敗した者は、じゃあ別の新しい街を目指そうという考えにはならない。なったとしてもその道は<上京>より険しい。」
「結局のところ啄木は、本人はエリートの道を挫折したにもかかわらず、いや挫折したからこそ、近代的エリート養成と不可分だった<上京>システムの限界をその作品のなかに露呈させえたのではないかと思う。ある程度の教育を受けたばかりに、進むべき道を閉ざされた瞬間に目的地を見失い、社会的に宙ぶらりんになっていく。その結果として、進歩を捨て去った一介の『村民』となる覚悟も持てず、エリートの夢を諦めきれない中途半端なインテリゲンチャと化す。啄木はその典型だった。」
(=細部にわたれば、用語や概念規定に異論がない訳ではないが、嵯峨の論考同様「時代に視点を当て」「地方からの上京というファクターに注目し」「現代の目から啄木を論じ」ているのが好ましく思えた。ここにゲーム感覚は皆無であるからだ。いい加減な感想文ではない。)
そのほか、「短歌時評」の「茂吉の力」にも注目した。「近代短歌に学ぶ」という姿勢が、全体のものになってきたように思う。
*僕の第一歌集「夜の林檎」は品切れ。
第二歌集「オリオンの剣」は、アマゾンに出品中。
第三歌集「剣の滴」(かまくら春秋社)は、楽天ブックス、
live door books、のほか、全国の書店で注文出来ます。*
付記:画面右側の「カテゴリー」をクリックして関連記事を参照してください。
画面左側の「フェイスブック」をクリックすれば、画面が切り替わります。