岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

夢のごとき雲の歌:斎藤茂吉の歌

2012年03月09日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・いめのごとき薄ら雲らも或る時は紅葉の紅き山にいさよふ・

「暁紅」所収。1936年(昭和11年)作。

 先ず語意から。

「いめ=夢」「薄ら雲=うすい雲」「いさよふ=いざよう・ただよふ」「紅き=あかき」。

 次に茂吉の自註。

「木曽旅行の歌である。・・・これは王瀧の歌で『いめのごとき』もこの一首ではどうにか落著くとおもふ。『雲ら』の『ら』もをかしいやうだが、その時はをかしいと思はず使った。」(「作歌40年)」

 これは後に述べるように、塚本邦雄が絶賛するほど美しい歌だ。だがぼくは迂闊にも見逃していた。理由は初句にある。「いめ」というのは「ゆめ」の古称。そのため僕にはピンと来なかったのだ。端的にいえば、現代から見て古風過ぎるのである。それでは「夢」にするとどうなるか。何か表現が甘くなる。やはり「いめ」だろう。「茂吉の時代の秀歌」と言えるだろう。茂吉嫌いのひとはこういうところを指弾する。それは一面もっともだが、一面無茶だ。現代の目でみれば、もっともだが、先人の作品の読みとしては、間違っている。斎藤茂吉は近代短歌の歌人であり、現代歌人ではない。そのようなことを言えば、近代以前の和歌には何の価値もないことになる。そんな事はあるまい。

 この一首には、茂吉らしさがつまっている。

 まず、汎神論的作風。幻想的な歌だ。「雲ら」と擬人法がこの場合生きている。

 次に、色彩の鮮明さ。「薄ら雲」「紅き」。「或る時」「いさよふ」により微かに動き漂うさまが確実に描写されている。ここもまた幻想的である。

 最後に、初句の「いめのごとき」。「いめ」は「ゆめ」の上代語で万葉集に用例がある。「万葉調を駆使した重厚な文体と、鋭く生命を凝視した感覚で独創的な悲歌」というのは、岡井隆編集「集成・昭和の短歌」の「赤光」の解説だが、それがここにも現われている。

 批評を挙げる。

「日本画の境地のように美しい。高山だから雲が赤い紅葉に触れて動く。その淡い雲を『いめ(夢)のごとき』といったのが一語に捉えたという感じのする表現である。同じように『或る時は』といったのもよい。短歌は単純を求めるから、このくらいの要素があれば佳作となるし、あまり力を注いで作っていないのでかえって楽しいというところもある。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)

「『いめのごとき』はすなわち、夢のごとき、だが、いかにも山中の清く淡い雲のありさまである。それが紅葉の山にふれてただよい、とどこおっている。『紅葉の紅き山にきさよふ』が鮮明華麗だが、ただそれだけでなく一、二句と照応して神秘的象徴的な美しさをおびるにいたっていよう。」(長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」)

「木曽の旅の作品中に見る際立って美しい歌であり、自註にも佐太郎『茂吉秀歌』にも、勿論『斎藤茂吉歌集』と称する他選歌集にも採られてゐる秀作だ。・・・著しく絵画的な歌・・・それも水墨画ではなくて、金碧に雲母華やかな大和絵の、それも爛熟期の不特定多数のタブローを思ひ浮かべるだらう。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路まで百首」)

 この秀歌が見逃されがちなのは、「いめのごとき」と上代語を使って、現代から見ると古風な趣が目立つからである。斎藤茂吉の作品も近代短歌であって、現代短歌ではないということか。茂吉の秀歌も「古典」の範疇にはいるものもあるということだろう。だからこそ言葉を真似るのではなく、「なぜ茂吉はこういう言葉遣いをしたか」を考えるのが、茂吉に学ぶということだろう。




最新の画像もっと見る