岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「塔短歌会」60周年記念シンポジウム:報告

2014年08月30日 23時59分59秒 | 作歌日誌
「塔短歌会」60周年記念シンポジウム 「言葉の危機的状況を巡って」

1、高野公彦の講演「曖昧と明確のはざま」


 総計26人の歌人の難解歌、表現の曖昧なものを採り上げて批評した。「全く曖昧で作品として不出来なもの」「曖昧だが飛躍が許容範囲で詩情が認められるもの」。この二つが論じられた。そのうち不出来なものとしては、雪船えまの作品2首、永井祐の作品1首、島本ちひろの作品1首が紹介された。

 高野は「大きな声では言えないが」を何回か繰り返し、現代の歌壇で表現の未熟なものが、評価されているのに疑問を呈していた。そこは僕も納得した。だが高野の用意した資料にあげられている現代歌人協会の著名歌人の作品に、明らかに奇を衒った「言葉遊びの作品」「主題の無い作品」があった。しかし、その作品は「分かるように読んであげる」という姿勢だった。

 どんなに著名な歌人でも失敗作は失敗作だ。そこを「自己規制」せずに発言して欲しかった。また「コスモス」内部の歌人の作品には、評価が甘い様に感じた。

 さらに「短歌は『歌集』の中で、他の作品を踏まえて読むものだ」「短歌は作者の名前とともに読むものだ」という発言には耳を疑った。これでは短歌は「サブカルチャー」となってしまう。

 正岡子規、与謝野晶子、土屋文明、馬場あきこ、寺山修司、河野裕子、栗木京子、穂村弘、小島なお、大森静佳、松田梨子らの作品のうち、「主題が明確に見えないもの」が、17首(15人)はいた。

 歌壇には「批評が不在」なのだとつくずく思った。


2、永田和宏を中心とした鼎談「言葉の危機的状況をめぐって」

 これは「蒟蒻問答」だと思った。著名歌人の作品が8首、新聞歌壇から2首が取り挙げられて、「短歌=詩歌は分からない部分、曖昧な部分が必要だ」と永田は言った。しかし、一首として意味の通じないものや、主題が明確でないもいの、社会詠では、補足説明がなければ理解できないものがあった。

 詩歌として作品として成立していないものが、かなりあったと思う。

 高野の講演もそうだが、「表現が曖昧な失敗作」と「暗示に富み、象徴性の高いもの」との区別が全くついていないように、思った。著名歌人の作品をコジツケて解釈してあげている傾向が顕著だった。「象徴性の高い作品は主題がストレートに心へ響いてくる。」(あれこれ説明はいらない。説明が必要なようでは失敗作だ。)
 
 そして唐突に「政治家の言葉は軽い」と安倍晋三を批判する。なんだかちぐはぐだった。

3、マスコミの記者(報道招待)が多く駆けつけていたが、「塔短歌会」の主宰が、永田和宏から吉川宏志に交替するという記者会見が、シンポジウムに先立って行なわれた。

 つまり、世代交代をマスコミを通じて宣伝したのだ。

 「なんだ。代替わりのお披露目か。」フェイスブックの「招待」で、京都まで足を延ばしたが、なんだか「刺身のツマ」に使われたようで、不快だった。巧みな自己宣伝に乗っかってしまった。

 わざわざ、地方から飛行機で来ている人もいるのに、帰りに挨拶もなかった。せめて出口に永田和宏、吉川宏志がならんで、来た人を見送ってもよさそうなものだと思った。




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