・むかうより瀬のしらなみの激ちくる天竜川におりたちにけり・
「ともしび」所収。1926年(大正15年・昭和元年)作。
先ずは読みから。「激ちくる」は「たぎちくる」と読ませる。「たぎつ」は水が勢いよく流れることだが、普通は「滾つ」と表記するが、湧水ではないので「激ち」としたのだろう。このほうが「激しい流水」の印象が鮮明でふさわしい。
茂吉の自註:
「(1925年、信濃に講演に行った)やはりその時信濃で作った。・・・流動の調子で詠嘆した。この歌も強ひられて短冊などにも書いたことがある。」(「作歌四十年」)
「私は昭和元年、昭和二年あたりに信濃に旅し、また越後妙高山近くに行って歌を作った中に、やや特殊なものがあり、当時人の注意をも牽いたので、ここに若干抄して置いた。」(「ともしび・後記」)
茂吉の作品のうち、発表当時かなり評判になったことが窺える。塚本邦雄「茂吉秀歌・つゆじも~石泉まで・百首」では触れられていない。「申し分なき叙景歌」で塚本邦雄には、やや食い足りないものだったのかも知れない。
さきほどの茂吉の言った「流動の調子」を、佐藤佐太郎は次のように説明する。
「短歌の声調は五句連続したものであるが、それでも二句あるいは三句あるいは四句で休止する場合が多い。一句から五句まで切れずに連続しているという歌は案外に少ない。それは一句から五句まで、たるまずに、単調にならずに、句切れなく押しきる気魄というものが誰にでもいつでもあるとは限らないからである。」(「茂吉秀歌・上」)
「写実派」の短歌は調べを重んじる。「短歌調べの説」と一般に言われるが、その作家らしい批評である。つまり批評には、その人の作歌態度や理念のようなものがあらわれる。ときに評価のわかれる作品があるのは、そのせいであろう。
作者は山間の谷川の瀬の近くに立っている。その川は下流では川幅の広い「大河」となる。そこに至るまでの長い過程に作者は思いを馳せている。それが「天竜川におりたちにけり」である。以前、多摩川の源流を訪ねたことがある。そのときには多摩川を難なく飛び越えたものだった。おそらくこの時の茂吉もそういう感慨をいだいたのだろう。
長い過程を経た下流に思いが及ぶ。しかもその川は急流で知られており、「天竜」という名がついたのもその辺に原因があるのかも知れない。一首のなかに天竜川という固有名詞を入れる効果、一気に詠いきる声調の効果がこの辺にあるのだと僕は思っている。
一首の「調べ=声調」は一首の内容による。この一首の場合、情感・内容・声調の三つがマッチしている。バランスがとれているといってもいいだろう。
西郷信綱は斎藤茂吉を「みちのくの農の子」と言い、「< 写生 >という発想は地方からはじまる」と言ったのは大岡信であったか。ともかく叙景歌の巧みさは茂吉一流のものであろう。