「短歌の道しるべ(2)」
◎今月のワンポイント(五月)
*感動を絞り込む*
「感動を絞り込む」とは、ちょっと分かりにくい言葉ですが、ここで言う「感動」とは「感動した!」の「感動」ではなくて、「喜怒哀楽」のことです。ふだんの生活の中で、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、驚いたりしますよね。人の一生を左右するような「感動」ももちろんありますが、そういった「大きな感動」がなければ短歌が詠めないという訳ではありません。ほんの些細なことで構わないのです。これを佐藤佐太郎は「心のゆらぎ」と呼び、石川啄木は「命の一秒」と呼び、尾崎左永子氏は「ちっちゃな感動」と呼びました。日常生活の中で、全く心が動かされない人なんていませんよね。(絶対にいない!)
それでは「絞り込む」とは何でしょうか。それは「自分は何に心を動かされたかをはっきりさせる」ということと、「一首の作品を通してそれが相手に伝わるか」ということです。自分が何に感動したのかはっきりしていない人の作品は、散漫な感じになります。また、できばえのよくない作品は、あれこれ説明をしなければ読者に「感動」が伝わりません。
なんだか難しく思えますが、逆に考えろと「短歌の素材」(詠む対象)は無限にあるとも言えるのです。夜になると人間は眠りますよね。一日中あれこれ考え、思い悩み、クタクタになって夜には脳を休めます。(眠らない人がいたら、しれこそ脳のなかがショウトしてしまいます。)その中から一つだけ取り出して5・7・5・7・7のかたちにしてみる。まずはこれが出発点だと思います。
違う言い方をすると、こうなります。
「感動の中心を絞り込み、そのために余分な言葉は省く。」
このことを佐藤佐太郎は「表現の限定」と呼び、尾崎左永子氏は「削ぎ落とし」と呼んでいます。(言葉のろ過、詩的昇華などという場合もあります。)
「玉葱と同じ。皮をむいていくと芯のようなものが残る。それが『詩』である。もし芯がなければそれは詩ではない。」
もちろんこれは比喩です。玉葱には芯はありません。林檎にはありますが。
☆むだを省いて感動の中心にしっかりと光をあてるのは、芸術一般にあてはまることですが、短歌や俳句には特にそれが求められるのでしょうか。☆