「短歌は抒情詩であり、抒情詩は端的にいえば詩である。短歌の純粋性を追尋するのは、短歌の特殊性を強調するのでなくて、短歌の詩としての盛るべき内容を考えようとする。
詩は言葉によって詠嘆し告白する表現活動であるが、言葉以前のものについては原形的な詩を考えることも出来る。その場合、詩は感動、情緒であるといわれる。しかし単に感動、情緒ではない。詩は、その感動、情緒に意味を感じていなければならない。」
佐藤佐太郎の『純粋短歌』の冒頭の一文だ。しかしこれでは一読してわからない。そこで次のように考えた。(『星座』76号に掲載)
短歌は5句31音という定型を持っている。その定形が思わぬ落とし穴となることがある。説明や事実報告を定型に収めるだけで、それなりの形となってしまう。
短歌は定形の現代詩であると尾崎主筆は言う。佐藤佐太郎も、短歌は抒情詩であると言う。
では詩が成立する条件は何だろう。『ユリイカ』2014年5月発行の「吉野弘の世界」では「詩を書くことはこの世界に対する異議申し立てのところもありますから・・・。」と詩人の高橋順子が述べている。
この高橋の言葉から、「詩とは社会やそこに生きる人間に深い洞察を加え、人間を描いた韻文だ。」と考えるようになった。
「詩人の聲」というプロジェクトがある。詩人が1時間に渡って自分の作品をマイクなしで読むものだ。このプロジェクトに初めて参加してから2年経った。自分の聲を出すのは26回になった。他の詩人の聲も160回以上聞いた。1回あたりの作品数は一冊の詩集に相当する。かなりの数の詩集を読みこんだとも言える。
参加詩人の作風は様々だ。リアリズムあり、縄文時代の自然信仰アニミズム的なものもある。また巫女の予言のようなシャーマニズム的なものまである。
これらの詩人の作品のうち、すぐれたものは、人間や社会のありように対する問いを見事に表現している。人間をそのまま表現するのではない。暗示や連想を最大限用いて作品化するのだ。韻文だから言葉のリズム感も豊だ。
人間や社会への敬愛や批評精神なども感じられる。詩歌に限らず芸術とは、人間を描くものと言ってよかろう。
では現代詩と短歌はどこが違うか。これは型があるかどうかだ。型があるかどうかは不自由を意味しない。歌舞伎には型があるが、「勧進帳」の弁慶など演ずる役者によって個性が出る。型があるのを理由に歌舞伎が演劇とみなされないなどあり得ない。現代詩と短歌とは、新劇と歌舞伎との関係に似ているとは言えないだろうか。たしかに短歌は定形の現代詩である。
(ここまでが『星座』への掲載分)
【では現代詩と短歌とは同一のものだろうか。そうではあるまい。歌舞伎は演劇だが現代劇ではない。新劇との差異もここにある。短歌は詩歌ではあるが現代詩ではない。
そこで僕はこう規定した。「短歌は現代の定形詩である」と】
(この投稿掲の【】の部分は紙数の関係で論じきれなかった部分です。)