日本には様々な「乱」「変」「合戦」があった。保元の乱、承久の変、関ケ原の合戦などである。
時代は違うものの、英語での[battle]で[war]とは違う「内戦」「戦闘」であった。当然敵と味方がはっきりする。だが時として敵と味方や時代背景が複雑なものがある。ここでは平治の乱と応仁の乱を採り上げよう。なぜこの二つの「乱」か。それこの二つの「乱」が時代の節目に起こったものだからだ。
1、平治の乱(1156年):
時代は平安時代末期である。奈良時代に完成した律令制度はもはや時代にそぐわないものだった。そこへ武士が登場するのだが、すでに記事にしたので、ここでは乱に関係のある人物や時代背景に限定してまとめてみよう。
この乱の直接の引き金は藤原信西への反発だった。信西によって冷遇された源義朝と藤原信頼が、平清盛の留守中を狙って京の都で挙兵し信西を殺害したクーデターだった。
藤原信西も藤原信頼も院の近臣つまり治天の君=後白河上皇(のちに法皇)に直接使える者達だった。
藤原信頼は様々な方法で源氏等の軍事貴族や奥州藤原氏と結び、武力を統括出来つつあり、近衛大将への任官を望んだ。しかし藤原信西に阻まれた。
また源義朝は、保元の乱の功労者であるにも関わらず、左馬頭(さまのかみ=朝廷の馬を管理する役所の長官)に甘んじていた。
こうした「保元の乱ののちの朝廷の体制」への不満が、藤原信頼と源義朝を結びつけた。標的は藤原信西である。ことに信西と信頼の対立は院の近臣同士の反目、或いは権力闘争だった。
この乱では双方の動員兵力がそれぞれ2000から3000でという大規模な軍事衝突だった。そしてこの「乱」では、信西が殺され、取って返した平清盛が勝利し、藤原信頼は処刑され、源義朝は東国へ落ちる途中、尾張で殺害された。藤原摂関家はすでに往年の権力を失い、信西や信頼のような「院の近臣」もその力を弱めた。そこで平氏政権が確立する。中央政界の政局を左右するのが武士団の力であることが証明されたからである。
この武士の台頭は、地方の土地を武士が支配していることに照応する。だが平氏は旧体制の公家化し、地方の武士の土地所有と乖離してくる。そこで清盛の死後、滅亡するのである。
この公家化した武士の政権は、古代社会に豪族や貴族・公家が権力の中枢を握っていた公家政権時代と、中世の武家政権時代の間に有るものとして、古代最末期の政権だといえる。それは時代の節目、転換期だった。旧来の価値観が変わりつつある時代だったとも言える。まさしく「乱」であった。
2、応仁の乱(1467年より12年間):
時は移って室町時代。室町幕府の8代将軍足利義政の時代。京都を舞台の総勢20万を超える軍勢が戦った。京都の町は灰塵と化した。この驚くべき被害をもたらした応仁の乱の直接の切っ掛けは、将軍家の跡目争いを始めとする、有力守護大名の相続争いにあった。
将軍義政には男児がおらず、弟の義視を後継者としていた。後見人は管領の細川勝元である。後継者となった直後に義政に男児が生まれた。後の足利義尚(よしひさ)である。義尚の実母:日野富子はその後見として侍所所司の山名宗全を付けた。
幕府の実力者が反目しあう構図がここに出来上がった。なぜそこまで地位や相続にこだわるかというと、相続すれば将軍、出来なければ家臣。雲泥の違いがある。
江戸時代には「長子相続」が決まっていたが、鎌倉時代まで「末子相続」が残っていた。これは長男や早く成人した者は独立して、別に家を構える事が多かった。当然、本家を継ぐのは末子ということになる。この「長子相続」が確立していない段階で、跡目争いは充分起こり得る。
この問題が将軍家のなかで起こった。こういった事情は畠山氏、斯波氏といった管領を務めるほどの有力守護大名家も同様だった。それぞれが細川、山名を頼り、自然二大陣営が出来上がった。このころの守護大名は、近世の大名と違って、幕府から守護に任命されなければ領地を失う。南北朝以来、土地所有が流動的だった。これは守護大名家の家臣も同様だった。ここに京都の騒乱が地方へ飛び火する可能性が出て来る。
細川勝元は将軍の御所を陣営とし、対する山名宗全は京都の西部の大路を掘り返して陣地とした。のちの西陣(西陣織の西陣)である。当初とは逆に細川勝元は将軍義政とその子、義尚を大将として戴き、足利将軍家の旗を掲げ、山名宗全は足利義視を戴いた。
激しい戦いが京都市内で行われたが、戦闘は長引いた。そのうち細川勝元、山名宗全が相次いで亡くなり、京都に参陣した守護大名も自分の本拠の領地をまとめる為に帰国していった。そこで細川勝元の息子の細川政元と、山名宗全の孫の山名政豊の間に和議が成立したが、騒乱は地方へ拡大していった。
このように果てしない騒乱は土地の所有や家督相続などを原因として、地方を含めて約100年間続いた。戦国時代の到来である。この乱で室町将軍の権威は地に落ちた。この「乱」もまた時代の変わり目であった。その意味でも「乱」と呼ばれるのがふさわしいのではなかろうか。