・ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし・
「赤光」所収。1913年(大正2年)作。
伊藤左千夫死去の報に接して、夜道をひた走る場面。「悲報来」の一連の中の一首。独特の趣を持つ一首だが、これに先立つ作品
・ひた走るわが道暗ししんしんと怺えかねたるわが道くらし・
と題材・表現が似ているため、佐藤佐太郎「茂吉秀歌」にも長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」にもとりあげられていない。
しかし、「蛍の一首」は「ひた走る」と比べて独特の雰囲気を持っている全く別の作品と呼んでいいと思う。その理由は「蛍を殺す」という表現にある。一種不気味な雰囲気とでも言おうか。
作者は蛍の飛び交う暗い道をひたすら走っている。「伊藤左千夫死す」の報に接してのこと。顔の前を飛ぶ蛍を手で払ったのだろうか、つかんだのだろうか。どちらでもいいが、蛍は死んだ。それが左千夫の死と重なるようで暗示的である。
「生と死」をテーマにした「赤光」のほうには、こちらの方が相応しいと僕には思える。
が、一方で「蛍を殺す」が「人の死」と接近し過ぎて、「きわどい表現だ」「ポーズが出過ぎている」という論も成り立つ。
確かにそうだが、「ポーズを全くとらない芸術作品」はあり得ないし、切迫感において「ひた走る」には及ばないと思う。インパクトがあるのである。
それにしても、「歌集のテーマ性」を思う。茂吉の代表歌集「赤光」・佐太郎の代表歌集「帰潮」はともにテーマ性を持っている。前者は「近代的自我」であり、後者は「貧困の悲しみ」である。そしてそのテーマ性は時代状況と符合している。前者は「近代社会の成立」であり、後者は「終戦後の社会の貧困」である。
名作とはかくのごとく作りだされるのかも知れない。
