岡井隆と吉本隆明。定型詩論争で有名だが、先ずは論争の概略から。
昭和20年代の第二芸術論で打撃を受けた短歌が、昭和30年代の「前衛短歌」の出現により徐々に息を吹き返し始めた。詩人には短歌に対する憎悪があったのでしょうかという問いに対し、岡井隆は「やっぱりあったのかもしれないねえ。」と答えている。(「私の戦後短歌史」)詩人には「文学者の戦争責任」という意識をもつ人がいて、それが根底にあるようだ。
そのころ詩人と歌人の論争が「短歌研究」誌上で立て続けに行われた。「塚本邦雄と大岡信」「寺山修司と嶋岡晨」そして「岡井隆と吉本隆明」。
短歌は定型のワクがあるから、「社会的なことや思想的なことは盛り込めない」とする吉本隆明と、「暗喩などの修辞法を駆使していけば可能だ」という岡井隆の論争。
いわば論敵だったのだが、その二人がはからずも最近同じような事を言っている。
吉本隆明:「有望新人の詩集を読んだが、それらしく行別けしているだけで、詩になっていない。全くの闇のようだ。これを克服することは自然を題材にすることだ。日本には自然を対象にした詩という伝統がある。」(数年前の新聞記事。紛れ込んでしまったので、正確に書けないので、ご容赦を。)
岡井隆:「(歌人に現代詩を紹介しようとしても)賞をとった詩人の作品をよんでもちっとも面白くない。(また)ライトバースは前衛短歌世代を引き受けていない。穂村弘は悩みながら、待望の歌論書を書いているが、< 負の帝王 >だ。それに対抗できるだけの人がなかなかいない。私性のもっと濃い、あるいは写実も十分できるような、それでいて、明らかに今の時代を鋭く反映している歌人が欲しい。」(「私の戦後短歌史」)
歌人と詩人。ジャンルの違う人、それもかつての論敵であった二人が、何だか似たことを言っているように感じるのだがどうだろうか。短歌と詩の未来。未来もまた歴史である。なぜなら、未来は現在の延長であり、現在は過去(歴史)の積み重ねの上に立っているからだ。