「ライトバース」・ニューウェーヴ短歌が切り拓いたもの
今世紀初頭には、まだこんな論調があった。
「口語文語の混合文体は邪道だ。」「短歌は旧仮名で詠むべきで、それが短歌の美意識だ。」
しかし、短歌を現代の抒情詩定形詩と考えた場合、この旧仮名文語が、表現の桎梏となる場合もある。いまや旧仮名文語を、表現のファクターとして、重視するのは、短歌と俳句だけだ。あと10年もすると、短歌と俳句の世界でしか通用しない言葉と表記になるだろう。
僕は「運河」「星座」ともに新仮名で、作品を発表している。だから文語に限って言うと、正直「文語」を重荷と感じる時がある。文語を使うと、無暗に古風になり過ぎてしまうのだ。だが文語の「波長」は、5・7・5・7・7の定形の「波長」と合う。合い過ぎるほど合う。ところがそれが落とし穴。「波長」が合って、形が出来てしまうだけに、内容が背景に押しやられてしまう場合が少なからずある。
このブログは有難いことに、毎日300人ほどの人が閲覧してくれる。前日の訪問者は何人、検索ページは何ページ、読まれたページの上位50位までが、翌日に分かる。そこで気づいたのだが、近頃「0000の短歌の訳(やく)」という、キーワードが増えて来たのだ。以前、古文に初めて出会う生徒にとって、文語は外国語だという記事を書いた。時代は移り、その生徒たちが、親になる世代になった。文語は一層生活から遠いものとなってきた。
短歌を現代の定形の抒情詩と考えれば大問題だ。しかし悩みの種は歌舞伎だった。歌舞伎を現代語で演じては、陳腐と言うほかはない。短歌を口語だけで詠むと陳腐になるのではないか。
だが最近、古典落語の話を聞いた。古典落語も理解できない人が多くなって、表現を変更していると言うのだ。久し振りに桂小三治の噺を聞いたが言葉遣いが10年前とは変わっている。それでいて陳腐ではない。「詩人の聲」で、伊藤比呂美の説教節を聞いた。現代語だが、文語の持つリズムを崩さずに現代語にしている。
つまり口語でも、陳腐でなければいいのだ。こう考えるのは、工夫が足りなかったかも知れない。「ライトバース・ニューウェーブ」短歌は、旧仮名、文語の桎梏から、現代短歌を解き放った。これは紛れもない事実だ。
折から、歌壇では「肉親の死をフィクションとする」のが妥当か。という議論がなされている。加藤治郎が「肉親の死をフィクションとして、詠む動機が現代の歌人にはない。」とフェイスブックで発言していた。これは難しいが「動機がない」とまで言い切るのは言い過ぎだと、僕はコメントした。加藤は「すべての事象は、かもしれないですよ。」と返してきた。これを僕は「出来るものならやって見給え」と受け取った。そして、母の死をフィクションとした作品を、象徴詩の技法で作った。
生存する母は「難しい言葉を使っているが、哲学的で美しい。」と言ってくれた。「詩人の聲」で聲に載せてみたが、違和感はない。
そして、よくよく見れば、文語を一切使っていない。ひょっとすると、瓢箪から駒かも知れない。そしてこの試行錯誤の結果は、第四歌集に収斂させる積りだ。
(敬称略)