前衛短歌については「角川短歌」で長期に渡って「共同研究」が行われてきた。そこでほぼわかってきたことは、次の4点である。
1・前衛短歌は「第ニ芸術論」への反駁の文学運動だったこと。(「三枝論文」)
2・歌壇を含め、権力・権威へのアンチテーゼであったこと。(「安保と前衛短歌」)
3・語法、用語の面では、『喩』の拡大、特に『暗喩』が多用されたこと。
4・問題点。現実感のなさ、私性・肉声・肉体のなさ。(「永田・佐佐木論文」)
3と4との問題は密接に関わっている。「暗喩」は遣い方によってはイメージ先行になり、「現実感」がなくなるからだ。(これを佐藤弓生は「暗喩地獄」と呼ぶ。)
これを念頭に入れると、塚本邦雄の代表歌集は1970年(昭和45年)までの6歌集のように思える。
①「水葬物語」(1951年刊行):
・革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ・
②「装飾楽句」(1956年刊行):
・五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる・
③「日本人霊歌」(1958年刊行):
・日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも・
④「水銀伝説」(1961年刊行):
・突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼・
⑤「緑色研究」(1965年刊行):
・雉食へばましてしのばゆ再た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ・
⑥「感幻楽」(1969年刊行):
・にくむべき詩歌わすれむながつきを五黄の菊のわがこころ燃ゆ・
これらの作品には、痛烈な権威・権力批判、戦争への鋭いまなざしが伝わってくる。既成政党という語がまだなかったとき、革命家や政治運動の激しい時期に五月祭(この場合メーデー)に加わる青年でさえ権威のひとつだった。皇帝ペンギン(天皇制)も、ピカソの再婚に象徴される西洋文明の残酷な色調の表現、五黄の菊(流人の後鳥羽帝)への最高の愛情表現。これらに戦争・権威・権力に対する鋭い批判を見出すのは、そう困難ではないだろう。
この直後、塚本邦雄は「戦後派の言葉」を著すが、1970年(昭和45年)あたりから塚本自身が歌壇の権威となって行くのだ。
現代歌人協会賞受賞、あちらこちらの「現代短歌体系」「現代短歌全集」の編集委員、短歌新人賞の選考委員、そして「迢空賞」受賞。歌壇の大家だ。
それとほぼ同時期に前衛短歌の背景だった政治の激動は終わりを告げた。かつては、占領下の労働運動・片面講和反対運動・三井三池争議・60年安保闘争・ベトナム反戦運動・沖縄返還運動・70年安保闘争。これら街頭やテレビ映像を通して、目に見える政治運動は終わりを告げた。そして「1億総中流意識」。これでは塚本らの前衛短歌の成り立つ基盤がない。
そこで始まるのが塚本邦雄の古典回帰(古典和歌研究)、斎藤茂吉研究(「茂吉秀歌・全5巻」である。恐らく塚本は進路を模索していたに違いない。
結果残ったのが「技術だけの魂のはいっていない」(岡井隆)言葉の羅列である。20世紀末のある新人賞の選考会で、受賞作について岡井隆は「一応技術は一通りはいっている」と発言し、総じて「文体の新しさ」に比重がかけられている。この選考会で異論を述べたのは島田修二。「私はこの作品を最下位にしました。高得点を入れた方に逆に理由を伺いたい。」この時の選考委員は、岡井隆、塚本邦雄、菱川善生、馬場あき子、そして島田修二だった。
俵万智の「サラダ記念日」が一世を風靡するのは、この時期で、塚本邦雄も「角川短歌賞」の受賞作を絶賛している。
こう見てくると塚本邦雄の前衛短歌は1970年(昭和45年)で終わりを告げた。そして残ったのは「文体・用語の新しさ」という技術だけ。
結局、岡井隆が「私の戦後短歌史」「角川短歌・2011年2月号」で述べた内容が、実態に近いのではないかと僕は思う。ここでの論立てのはとんどは、塚本邦雄の歌集を読んでかなり前に気づいたものだが、その方向で「角川短歌」の「共同
研究・前衛短歌とは何だったのか」の最終回の座談会が進んだ。ここで述べた論は、おそらく的外れではないだろう。(その座談会については明日の記事にする。)
「前衛短歌は1970年をもって終わった。そのあと歌壇は方向性を見失い、何でもありが、跋扈している」と思うがどうだろう。