近藤芳美は茂吉以降の歌人のひとりだと思っている。第四歌集まで茂吉存命中だったが、その業績のほとんどは、茂吉死後(1953年・昭和28年)以降である。(例えば朝日歌壇の選者になったこと、現代歌人協会設立したこと、同理事長に就任したこと。歌壇におけるおもな業績は茂吉の死後である。だから「以降」という言葉に格別の意味はない。)
その一方で、近藤芳美の短歌の最大の特徴は「終戦直後の日本社会を短歌に表現したこと」だと思う。叙情歌集としての「早春歌」(第一歌集)にも特徴があるが、社会詠を主とした占領下の作品群は、他の追随を許さぬものがある。
1・第二歌集「埃吹く街」1948年(昭和23年)刊。
1945年(昭和20年)10月から1947年(昭和22年)6月までの作品からなる。まず三首挙げる。
・世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ・
・戦線を結成せよと言あぐる空転をして果てぬ言葉は・
・狭き貧しき国にて共に苦しまむ沁む思ひあり朝鮮の記事・
「< 埃吹く街 >は1948年2月10日刊。発行所は草木社という、同じく戦後相次いで生まれた小出版社であり、上野省策という自由美術系の若い無名の画家が疎開先で知り合った斎藤喜博と共に始めたものだった。斎藤喜博は小学校教師。優れた教育指導者として後に知られるようになるが、土屋文明門下の< アララギ >の歌人でもあった。上野は戦争の時期からの共産党員だった。」
「廃墟の瓦礫の中からやがて沛然としてマルキシズムを初め思想の波が湧き起り、街には赤旗の渦が満ちた。」(「近藤芳美集第1巻・あとがき」)
これが近藤の見た終戦直後の日本社会の断面だった。1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)の間には、治安維持法の廃止とともに共産党幹部の出獄、野坂参三の帰国、食料メーデー、農民組合・労働組合の相次ぐ結成、共産党による統一戦線結成の呼びかけ、占領軍による2・1ストの中止令などがあいついだ。近藤はそれにシンパシーを感じつつ、ある種の距離感をたもっている。
・革命などすでにあらずと言う安堵貧しき生活を吾らはまもる・
の作品からも読みとれよう。
「しかし近藤芳美は、もともと行動派の知識人ではない。病気を経た身体をかばいながら、妻との生活を守りつつ生きる、非行動的なそして、党派に与すること嫌う体質の技術者である。< 時代 >とか、< 政治党派 >をうたい、平和や反戦の気持をうたっても、どうしても限界がある。それなのに、歌界はこの人に、大きすぎる荷を負わせた。このジレンマの中で、< 埃吹く街 >以後の思想詠には、一定の歪みを生じざるを得なかった。」(岡井隆「近藤芳美集第1巻・解説」)
僕はこのジレンマの中に、「一定の歪み」のある作者の葛藤を読みとるのである。時代そのもの、たとえばこのころの革命運動に「一定の歪み」があったのだから、それから完全に隔絶できない、歌人近藤芳美の飾らない感情の表白があったとおもうからだ。
2・第3歌集「静かなる意思」1949年(昭和24年)刊。
1947年(昭和22年)7月から1949年(昭和24年)1月までの作品からなる。これもまず三首あげる。
・議論の末よるべき彼に政治ありすでに壁の如き心に対ふ・
・戦争の時を何して生きて来しきたなき自我を互ひに曝す・
・静かなる君もいくらか興奮し「働くもの」とくりかへし言ふ・
近藤芳美自身の言葉。
「< 静かなる意思 >は・・・前歌集< 埃吹く街 >につづき、1947年夏から49年初にかけての、一年半足らずの期間の作品を収録した。・・・日本はなお敗戦による飢餓の中にあり、進駐軍の支配下にあったが、街に赤旗が満ち、労働者の示威が湧き、民衆は革命前夜の幻想に酔っていた。」(「近藤芳美集第1巻・あとがき」)
この時期は共産党による民族民主統一戦線結成の呼びかけ、引き続き頻発する労働争議、それに対する米軍と警官隊の弾圧、総選挙での共産党の躍進(35議席)などがあった。「民衆は革命前夜の幻想に酔っていた」とはこのことで、49年夏には根拠なき「9月革命説」が共産党の周辺からおこっていた。
この共産党の躍進を近藤はやや興奮気味に作品に詠んでいる。歌集「静かなる意思」の最後の< 静かなる意思 >というタイトルのある連作である。近藤の「意思」の内容がわかる。
・刻々に共産党の数告げて午後のラジオよ病みてこもれば・
・みづからの未来を選ぶ民のことこの静かさは涙出づるに・
だがこの時期は、1950年朝鮮戦争開始・レッドパージ・占領政策の転換の前夜でもあった。近藤は「革命前夜の幻想」というがそれは現在いえることで、次の様な作品もある。
・李承晩この国に来て憎悪のビラ街々にあり一夜か二夜・
・北朝鮮に国興り行く選挙には吾らが残せし日本語を用ふ・
李承晩とはアメリカのあと押しで成立した南朝鮮の独裁政権。それに対して北朝鮮は選挙によって「新しい国」を作るという。ここに北朝鮮へのシンパシーを読みとることは、そう難しくない。現在から見ると信じられないことだが、当時の日本国内では特に珍しいことではなかった。
共産党の躍進(刻々とつげられる開票速報)の一連も現代の事例になぞらえれば、民主党の過半数獲得により政権交代に湧きかえった2009年と比べられ違和感は少なかろう。
ただ当時の社会にあって共産党は特別な存在だった。保守系政党の多くの国会議員が公職追放になるのとは逆に、共産党は「政党として」最後まで戦争に反対し、幹部の多くが治安維持法違反で検挙され、拷問で殺されたり、12年も獄中で非転向を貫いた党員もいた。占領下の総選挙での共産党の躍進は、2009年の政権交代以上に大きな意味があった。
しかし、1950年にレッドパージ・朝鮮戦争・公職追放解除がある。そして共産党は非公然とさせられ、占領政策の転換「戦後の反動化・逆コース」という社会に突入する。大逆事件後の「冬の時代」、戦中の治安維持法下を思わせる状況となった。
この状況下に、近藤の歌集が左翼活動家を励ましたのは想像に難くない。戦前の治安維持法下に「中野重治詩集」がその役割を担ったようにである。(新潮文庫「中野重治詩集・解説」)
だが、北朝鮮やのちの近藤作品に見える中国共産党へのシンパシーなどは、現在の目から見れば、違和感を禁じ得ない。ここが「社会詠」「思想詠」の難しいところだろう。
その難しさもひっくるめて近藤が引き受けたとすれば、近藤芳美には一つの「時代の証言者」とでもいう役割があったと考えてよいだろう。