伊藤左千夫の三人の弟子、島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明。この三人がアララギの編集発行人として大正・昭和初期にアララギの隆盛を作りだしてきたことを前回述べた。
しかしこの三人、「写生」についての考え方も作風も違う。その辺りのことをまとめてみよう。
・島木赤彦・・・信州高島藩五万石の桶職の家に生まれる。卒族(士族の下)または、藩の出入り商人である。父は維新後教員となり、島木赤彦自身も長野師範を卒業後教員となった。作風の特徴は、結句を字余りにして重みを出そうとしたこと、「主観語」を嫌ったこと、鋭く冷たい透明感があることなどである。斎藤茂吉より一まわり年長だった。歌人としての活躍も晩成型で、40代半ばから51歳で世を去るまでの数年間にすぎない。
これについて「島木赤彦:丸山静・上田三四二著」はこう述べる。
「彼は大正の大作家たらんがために、殊更に意識して浪漫派歌人にも自然派歌人にもならなかったのではない。実際のところは、浪漫派歌人たらんとして失敗し、自然派歌人たらんとしてもまた失敗したからこそ、大正後半の万葉調歌人にならざるを得なかったのである。」
島木赤彦の緊張感のあるストイックな作風はこのあたりに原因があるのであろうか。「歌道小見」「鍛錬道」など代表的評論はその題名からして、士族的性格のようなものを持っているように思う。
・斎藤茂吉・・・山形県の農家の三男として生まれ、縁戚の齊藤家の養子となる。西郷信綱「斎藤茂吉」によれば、彼は「みちのくの農の子」である。又その写生論が汎神論的性格をもっていることはしばしば指摘されるところ。生家も茂吉本人も熱心な仏教徒であったことに関連がありそう。森鴎外の影響を観潮楼歌会を通じて受けたと思われる。「赤光」における疎句などは西洋の「シュールリアリズム」を思わせる。「赤光」は「かなしの世界」、「あらたま」は「さびしの世界」と呼ばれるが、こうした「主観語」の多用は島木赤彦の批判の対象ともなっていた。「しんしんと」などの副詞的語句の効果的活用や、佐太郎短歌の「虚」(=フィクション)の原型のようなものもある。
・土屋文明・・・群馬県上郊(かみさと)村の農家の出身。一高から東京大学へ進学し、卒業ののち荏原中学校・三田英語学校・諏訪高等女学校・松本高等女学校などをへて、法政大学予科講師・日本医科大講師・明治大学講師・帝国女子専門学校講師を歴任。
大学講師のかたわらアララギの編集発行人となるが、このころから「抒情歌人から厳しいリアリズムの作風に変わり、時代に対する鋭い批評眼と現実把握の確かさ」(岩波文庫「土屋文明歌集」帯文)を持つようになった。都市に居住するインテリゲンチャとしての生活が影響したものだろうか。
また晩年には破調の作品が多くなる。ほとんど破調のなかった島木赤彦・斎藤茂吉との違いのひとつである。これはかつて岡井隆が短歌総合誌で指摘した通り。
ある歌人が「茂吉系と文明系をわかつものは、< けり >と< つ・ぬ >である」と述べたのは、文体のみに着目した短見ではあるまいか。(続く)